2010年11月28日日曜日
方のクニ、那須へ 6
那珂川町小川にある「駒形大塚古墳」。前方部の大半が削られているが、主軸東西、全長60.5mの前方後方墳。昭和49年に調査が行われて、鏡をはじめ豊富な副葬品が出土している。この地域内に築かれた前期前方後方墳の築造順は、駒形大塚古墳→吉田温泉神社古墳→那須八幡古墳の順だとされている。
方のクニ、那須へ 5
方のクニ、那須へ 4
方のクニ、那須へ 3
2010年11月26日金曜日
2010年11月21日日曜日
2010年11月14日日曜日
上高津貝塚ふるさと歴史の広場
2010年11月13日土曜日
2010年11月8日月曜日
上野から御茶ノ水へ 3
午後はリバティホールでのシンポジウム。私が参加したのは、3日間行われたうちの5日の午後の部のみです。
国際学術研究会「交響する古代」
主催 明治大学大学院文学研究所 日本古代教育・研究センター
Session3 「東アジアにおける国家の形成と文字」
大塚初重(明治大学名誉教授)
東アジアにおける国家の形成と文字ー日本における古墳時代の歴史的意味
朴 天秀(慶北大学校考古学人類学科)
三国古墳時代における韓日交渉の変遷と歴史的な背景
王 巍(中国社会科学院)
文字と文明
神野志 隆光(明治大学大学院)
文字の受容と日本語
徐 建(中国社会学院)
出土文字資料と古代史研究ー中日韓参三国の古代木簡を例として
吉村武彦(明治大学)
列島の文明化と国家のしくみ
会場は撮影禁止のため休憩時間に撮った、朴先生と大塚先生です。大塚先生がさびしそうに見えますが、いえ、お元気でした。
大塚先生は、近年の発掘調査などをふまえて、定説あるいは定説となりつつあることがらの見直しを迫られる可能性も、具体的な遺跡名を一部あげて解説されていました。
朴先生は、以前NHKへの出演の中での発言や先生の著書「加耶と倭」にも書かれている、倭と新羅との交流を重視した内容でした。それと、「渡来人」との用語には違和感があり、「移住民」を使うべきではないかともおっしゃっていました。
王先生や徐先生の研究分野は、私にとっては不勉強な部分なのですが、甲骨文字以前の絵文字と言っていいのか、文字につながるかもしれないものが、紀元前8000年の年代を与えられているのに驚きました。
木簡は、中国でも多数出土しているようです。韓国の木簡研究は少し遅れている、北朝鮮は今のところ木簡の出土はないとのことでしたが、これから、この分野は調査が進めば大きな成果が出てくると思いました。
国際学術研究会「交響する古代」
主催 明治大学大学院文学研究所 日本古代教育・研究センター
Session3 「東アジアにおける国家の形成と文字」
大塚初重(明治大学名誉教授)
東アジアにおける国家の形成と文字ー日本における古墳時代の歴史的意味
朴 天秀(慶北大学校考古学人類学科)
三国古墳時代における韓日交渉の変遷と歴史的な背景
王 巍(中国社会科学院)
文字と文明
神野志 隆光(明治大学大学院)
文字の受容と日本語
徐 建(中国社会学院)
出土文字資料と古代史研究ー中日韓参三国の古代木簡を例として
吉村武彦(明治大学)
列島の文明化と国家のしくみ
会場は撮影禁止のため休憩時間に撮った、朴先生と大塚先生です。大塚先生がさびしそうに見えますが、いえ、お元気でした。
大塚先生は、近年の発掘調査などをふまえて、定説あるいは定説となりつつあることがらの見直しを迫られる可能性も、具体的な遺跡名を一部あげて解説されていました。
朴先生は、以前NHKへの出演の中での発言や先生の著書「加耶と倭」にも書かれている、倭と新羅との交流を重視した内容でした。それと、「渡来人」との用語には違和感があり、「移住民」を使うべきではないかともおっしゃっていました。
王先生や徐先生の研究分野は、私にとっては不勉強な部分なのですが、甲骨文字以前の絵文字と言っていいのか、文字につながるかもしれないものが、紀元前8000年の年代を与えられているのに驚きました。
木簡は、中国でも多数出土しているようです。韓国の木簡研究は少し遅れている、北朝鮮は今のところ木簡の出土はないとのことでしたが、これから、この分野は調査が進めば大きな成果が出てくると思いました。
2010年11月7日日曜日
上野から御茶ノ水へ 2
今日の
今日の星神社古墳。最近「常総の歴史 38号」を見つけました。その中の塩谷修さんの「前方後円墳の波及と埴輪祭祀」-常陸北部久慈川中流域の梵天山古墳群をめぐってーは興味深いです。現在の状況の中での論考としては出色だろうと思います。その中からちょっと抜粋させていただきます。P.80の「想定した二古墳の築造時期が正しければ、両古墳は、古墳時代前記前半から中葉の極めて短期間に築造されている。築造時期が接近すること、前方後円墳に表れた儀礼の系譜の錯綜した状況などから、星神社古墳と梵天山古墳は、継続する二代の首長墳と考えるより、同世代に造営された性格の異なる大小二基の前方後円墳と考えたほうが理解し易いようにおもわれる。」東国の古墳の中で、巫女の存在が語られることは少ないと思う。栃木の桑57号墳のような巫女的性格をもった古墳が東国にもあるということは、塩谷さんの説をとれば、梵天山古墳は派遣将軍、星神社古墳は祭祀をつかさどった巫女の墓とも考えられるのかなと?。私の妄想まで。