事が終了した高山塚古墳へご挨拶。 まあ、もう一度あるかもしれませんが。 地主が植えたミカンが実っていました。 そして、これからの梵天山古墳へご挨拶。
もちろん、星神社古墳へもご挨拶。
さて、各オートバイメーカーが排気量1000ccの究極のエンジンで優劣を争うMOTOGPレースがあり、これをテレビで見るのが楽しみでもあります。
今年は久しぶりに、ヤマハファクトリーライダーのファビオ・クアルタラロ(Fabio Quartararo)と言う、発音しずらいライダーがフランス人初のチャンピオンを取りました。 それを、元のヤマハのライダーで世界チャンピオンだったホルヘ・ロレンソ(Jorge Lorenzo Guerrero)が祝福している画像です。 ライダーと言う特殊な職業で、彼もなかなかな問題児だったけど、ずいぶん大人になったんだなと思わせられる画像です。
この神社の北東には青蓮寺があり、北には嵯峨神社あると云う、何かいわくがありそうな土地柄なのでしょうか。
本殿はそれぞれ趣が違い家紋も違うという状況ですが、由緒は不明なようです。
企画展の「ふぇいす」です。 縄文時代からの「顔」が展示されています。 この展示を見ていて改めて思ったことは、小美玉市にある舟塚古墳の優品の埴輪と、埋葬施設のローカル的な様相とのギャップの意味を考えてみたいですね。 いずれにしろ、この古墳は重要だと思います。
大方町は、その北方の高柿町から連なる舌状に伸びる台地で、東に久慈川支流の山田川、西に浅川に挟まれた、日当たり良し、水害の心配なしの居住区としては最適な場所です。
この地の古墳に関する記述としては「金砂郷村史」に詳しく述べられており、現存する古墳は痕跡も含めると7基ほどでしょうか。消滅してしまった古墳を含めると10基以上は存在したようです。 時代的にはおおむね6世紀代とされる古墳が中心になるようです。
画像上段は大方町を南側から見たものです。 左端に鳥居が見えますが、その奥に径50m級の円墳「大方鹿島神社古墳」があり、その西側にも円墳があります。
画像2段目は、大方町を北側から見たものです。オレンジ矢印は小さな前方後円墳の大方熊野神社古墳があるあたりです。 この古墳は後円部が南方面を向いており、ご先祖様かもしれない、久慈古墳群の方向を意識しているんじゃないのかなと思いたくもなります。 3段目画像は大方熊野神社古墳後円部と鳥居です。
4段目画像は明治38年測図の大方地区です。 黄色線は大方鹿島神社古墳地点。 オレンジ矢印は大方熊野神社古墳がある地点ですが、鳥居マークがありません。 この神社は地主が近世に建立した可能性があるようですね。
そして、黄緑線はこの付近の字名で、旧字の臺(だい)となっています。 ちなみに、地図には載っていませんが、大方鹿島神社古墳付近の字名は「宿」となっています。 わかりやすい字名ですね。
さて、この臺(台)の意味ですが、広辞苑 第二版には、たかどの、うてな、ものみ、山や岡などの平たく台のようになった土地 などとなっていますが、はたしてどれが当確するんでしょうか。
この大方地区で、私の私的な実見として十王台式土器の破片をたくさん見ることが出来る畑がありますが、土師器を伴わない事実も確認しています。 そして、十王台と古墳の親和性は皆さんご存じのことでしょう。
趣味の領域で考古学もどきをやっている私ですが、この調査と2008年7月に明治大学で開催されたシンポジウムに参加したことや、2011年1月に、奈良県天理市にある西山古墳から桜井市にあるメスリ山古墳まで歩いて廻ったことが、大きな刺激となっています。
そして今、常陸太田市が文化庁との連携で、T教授が提唱する「久慈古墳群」を中心とする遺跡の国指定に向っての調査が進行中です。 私のような素人がそれに参加させていただいていることは(少々疲れますが)私なりの趣味の領域での知的な活動になっていることを感謝したいと思います。