私は、担当者のY氏からお誘いを受け、参加させていただきました。
冒頭、Y氏の挨拶から始まり、あの某K氏の推・想定復元だとする星神社古墳の埴輪への推論があり、それから、各研究者の方々の観察発言が飛び交い、素人の私にとっても刺激的なひと時でした。 ありがとうございました。
そして、漏れ伝わり聞いたことですが、近い将来日立市において、歴史好きな方が驚くような発表があるようです。 期待していいと思います。
常陸太田市中野町にある「中野冨士山古墳」の命名については、地元の方のご協力で、法務局へ出向いて地籍図などを確認していただいたりして、最終的には、古い地名に「冨士山」の文字が使われているということで冨士山を、「あの方」が採用しました。 さらに、あちこちに富士が付く古墳名があるので、町名の「中野」をつけて、中野冨士山古墳となりました。
余談ですが、お隣の常陸大宮市にある「五所皇神社裏古墳」と「五所皇神社古墳」と、名前が迷走しているようですが、これは、茨城考古学の重鎮であるT先生が五所皇神社裏古墳と命名されたと聞いています。 それでいいんじゃネ!と思いますが。
そしてもう一度確認します、富ではなく冨です!
小貝川に架かる橋から撮った画像です。 右側の茂みが蘆間山古墳で、左側には、皆さんご存じの筑波山です。 このような位置関係です。
陰影起伏図を見てみると、小貝川と五行川との合流点近くにある、前方部が不鮮明ですが、蘆間山古墳の状況がよくわかります。 初めてこの古墳を見に来た時、小貝川のすぐそばに築かれていたので、少々驚いた記憶があります。 それだけ、河川とその合流点が重要な意味を持っていたのでしょう。 そして、この一基だけがぽつんと、この地に出現したことは、まさに、象徴的な出来事だったのではないでしょうか。
その後、南東方向1.5kmほどの所にある馬の背状地に、台畑古墳と灯火山古墳とが出現して、順調に地域開発が進行していったんでしょうね。 おそらく。
低所に築かれた星神社古墳と蘆間山古墳は、そのことだけで、相通ずるものがあるのかどうか、今後埴輪などの検討も加えて、研究が進展することを期待したいです。
この画像を見ていると、「そこに山がなかったから」低所に築かれたのではなく、河川流通と地域開発の最前線に築かれた古墳のように思えてきます。
この古墳へは、2008年頃から頻繁に通い詰めて観察してきました。 ですから、詳細なことまで分かっているつもりでいました。 ですが、今年行われて発掘調査で新たな知見が出現しました。 そのなかのひとつに、この墳丘の築造方法が、全部盛土で築かれている可能性が高いことです。 他の中野冨士山古墳以降、調査されている古墳はいずれも地山削り出し後、盛土で形を整える築造方法でした。 しかも、なぜこの古墳だけ水害にあう可能性が高い低所にわざわざ築かれたのか。
この、確信的に低地こだわったであろうこの古墳と、私が実見したことがあり、これと似た環境にある、蘆間山古墳とを見比べてみようとおもいます。
先ずは、星神社古墳から周辺への視認性を見てみましょう。 この古墳の西側方面には中野の丘陵が見えて、そこには中野冨士山古墳があるわけですが、丘陵越しには、久慈川支流の浅川、その先の久慈川流域付近まで見通せます。