梵天山古墳から中野冨士山古墳、星神社古墳へとご挨拶。
宝金剛院では、屋根の銅板の葺き替え工事が行われていた。
某C国コロナウィルス以外に、昨年と今年はいろいろあった。
まあ、これも70の節目の年に完結できそうなので良しとしよう。
来年の2月には注目すべき活動が再開しますが、その前に私的調査を某所で行うつもりでいます。
6号国道から一段下がった所にある、と言うよりも池の川さくらアリーナ方面まで延びる谷津の奥にあると言ったほうが正解かもしれません。 当然意味ある地点に鎮座しているものと思われます。
祭神は武甕槌命。 由緒としては、大同4年(809年)に、この地を開拓した祖先達が、鹿島神宮の御分霊を勧請したとあります。 いや、古いですね。 付近には古墳があったのではと思いたくなります。
60数年前、この付近には蛍が飛んでいました。 老木だからってただ消えていくのは忍びない。
ひるがえって、某大国とそのコバンザメみたいな国の、嘘とファンタジーで作りつつある歴史は、自国の将来に災いをもたらすのが見えているのに、看板に偽りありの帝国もどきには、わかんねんだろうな。
しかし、神社にあった碑文によると、元は八幡神社だったが、光圀の命で「天磐楠舟命」所謂「武甕槌神」の副神を祀ったとあります。 この神社は佐竹時代のかもしれません。
そうなると、旧水府村西染に何気なくある「岩船神社」は、少し輝いて見えなくもないなと思ってしまいます。 久慈川の支流、山田川とこの地点が重要な意味を持っているのかもしれません。
もう少し妄想を膨らませると、この常陸太田市は久米、佐竹(狭竹)、船瀬足尼などの名称と共に、梵天山古墳を盟主とする久慈古墳群があります。それと、岩船神社の祭神「饒速日命」。これらをつなぎ合わせると、物部氏と久慈古墳群との濃厚な関係性が見えてくるように思えてきます。
まあ、考古学的な文章にするためには、憚れる内容になってしまいましたが、将来的にはこれらを絡めた、一般向けの常陸太田市の古墳時代を解説するためには(某N局のテレビ特集のように)少しの演出は必要かもしれません。