国土地理院のアナグリフ(カラー)を借用しています。
今回、常陸太田市島町にある古墳群の立地について、2004年に多久那研究会により刊行された「採集資料集 久慈川流域の前期・中期古墳」(以下資料集)を参考にさせていただいて、私的妄想を膨らませたいと思います。
資料集には、この島町の独立丘陵についての地理、歴史環境について詳述されています。そのなかの「これらの古墳は台地最東端に位置している11号墳塚越塚古墳を除き、台地西側に集中して分布している。」に続いて、台地の南北にある谷との位置関係についても着目しています。これで答えは出ているのですが、もう少し膨らませてみたいと思います。
画像上段のアナグリフを見ていただくと、画像上が北になっていて、小さい古墳は判別しにくいですが、梵天山古墳、巨大円墳の高山塚古墳との間にあるのが弥陀塚古墳です。梵天山古墳の南側にある谷の画像が2段目(下から)と3段目(中段)と、4段目が前方後円墳の瓢塚古墳があるお宅の入口です。これらと消滅してしまった円墳の9号墳とが、この谷に接する様に築かれているわけです。 さて、次は北側に移ります。高山塚古墳の西側に谷をはさんで富士山塚古墳があります。それだけではありません。谷と高山塚古墳と接する様に宝蔵塚古墳と4号墳があります。画像5段目は富士山塚古墳から見た谷で、下段画像は小島町から見た谷の入り口です。中央付近に小道があります。 以上を見ていただいて妄想の結語といきますか。
巨大古墳の梵天山古墳と高山塚古墳とは、全方位を意識した古墳ととらえて良いと思いますが、台地西側に片寄って古墳群が築かれている意味は、久慈川支流の山田川より浅川が重要だったのか、他の意味があったのか今後の調査のテーマにする必要があるように思います。
そして、南北の谷については、この島町の台地が当時は本当に「島」だったのか、「島」の様に見えただけだけだったのか、谷は何に利用されたのか。具体的には「船着き場」、「何らかの流通路」だったのかなどと思いつきますが、現状では断言できません。消化不良ですが今後の調査で見えてくるのを期待しています。
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