我が家には書庫が無いので、小さな本棚からはみ出た書籍はツンドクになります。
そのため、しばらくすると年齢的な衰えのためなのか、何時購入したのかを始め内容も、忘却の彼方はちょっとオーバーですが、記憶が薄れるということになります。
これらの図録なども、え~、こんなのあったんだぁ~ となります。
しかし、良い点としては、また新たな気持ちで読み進めることができるのです?
今まで、複数の方達からこの古墳についての事柄をお聞きしてきました。
古墳で紡錘車を拾ったことがある。 須恵器を拾ったことがある。 戦後は藪がひどくて立ち入れない時期もあった。 このあたり一帯は松が植えられていた。 大日本帝国陸地測量部が明治38年に測図した地図に、古墳の後円部に鳥居マークがあるのはそれなりの規模の神社があった可能性がある。など、時代が異なる土器片が混在していることを含めて、これらがこの古墳の表情と歴史ですが、これから少しづつ内実が見えてくると思います。
西側斜面を除いてだいたい終了しました。 まあ、一人での調査だったので、隈なくとはいかないまでも、この丘陵の地形の細部を見ることが出来たのは良かったと思っています。
成果としては不発でした。
3月はぼちぼちと、別な地点を見てみようと思っています。
円墳らしき5米のマウンドを今日も探しましたが、不明でした。 そして、史考15号では東側斜面では何も発見されなかった、となっていますが、谷状に切れ込んでいる地点があり、もしやと思って見てみましたが、なにも見当たりませんでした。
丘陵の東西で地質の違いがあるのかもしれません。 念のために、北側の丘陵先端部に這い上がってみました。 丸くマウンドにも見えますが、(2段目画像)このような地形はよくあるんですよね。 次回はまた別の地点へ突撃します。
上段画像は国土地理院の傾斜量図を拝借しています。 ちょっと不鮮明ですが、下のほうに見える前方後円墳が中野冨士山古墳です。赤丸で囲ったところに、整地されたようにみえる地点に円墳らしき影が見えています。ただ、2段目の史考15号にある略図とくらべると、地形が異なって見えます。多分南北が逆転して描いてしまったのかもしれません。
それはともかく、まず初めにこの円墳とされる地点を目指しましたが、傾斜量図にあった地点が分かりませんでした。 もう少し北側に行った地点に円形の高まりがありました。径約10mほど(下段画像)。これがたんなる土膨れなのか人工物なのかはわかりません。
中野冨士山古墳整備の時、80歳を超えた方達との会話で、戦争中に金砂郷町にある丘陵の高所地点に高射砲陣地が築かれたところもある、との情報を聞かされています。
さて、そんなことも参考にして、再度突入してきましょう。
上段画像は、常陸太田市中野町にある独立丘陵で、画像左側付近に中野冨士山古墳があります。
昭和33年6月3日、常陸太田第一高等学校史学会員13名が、以前は郡戸村だったこ地の丘陵を群戸丘陵と呼称して調査を行っています。
それをまとめたのが、下段画像「史考 第15号 郡戸古墳調査報告」です。
私もこの丘陵は2012年から数回調査をしていますが、部分的調査で終わっているので、史考15号を参考にして、なるべく全域を調査したいと思っています。
まあ、物好きな事ですが、これも私の趣味ですから。 そう、趣味=物好きでしょう。