図書館で、大正15年に発刊された「久慈郡自治記念誌」と言う本をを見つけた。この本の郡戸村の項の中には「鯨鯢岡は大字の稍中央にある古跡にして、一名遠山ともいふ。これ遠山氏の館を構へんとて、土をならせしに因るべしといひ傅ふ」とある。古墳のことに関しての記述は無いが、遺跡地図に東山古墳群とあるのは、遠山が正解なのかもしれない。もっとも東山古墳群の存在も不明瞭なのだが。そして、「大字新地は往時下新地と共に那珂郡岩瀬村の一部なりしが、久慈川川流の変化により分離して久慈郡に属し、上新地と称し、天保年間新地村となりし」とある。江戸末期に久慈川が流路を変え、いや、太古の昔から流路を変えながら今に至っているわけだ。さらに、記念誌のなかに茨城県久慈郡長の「尾戸次作」、大字小島 村会議員「鴨志田慶次郎」などの名前があり、これらは、郡戸小学校近くにある「古墳碑」の裏に刻書されている、発起人に名を連ねる方々でもありました。
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