2019年1月31日木曜日
中野冨士山古墳と富士講
昨年末、鴨志田清敏氏から弟ぎみの故鴨志田昌夫氏の著書を頂戴した。
その中の第一章として(勝手に参考にさせていただくことをお許しください)
郷士の暮らし向きー天保六年 (前編)
ー「年中出入諸雑用覚帳」 翻刻と注釈ー
がある。(鴨志田昌夫 2016 9月) これは、鴨志田家の御先祖の鴨志田又左衛門直升(天明十一年 1788~万延二年 1861)が記録した、天保六年(1835)の正月から大晦日までの家計簿ともいうべき記録である。その中に 当時の鴨志田家だけではないのだろうが、年間かなりの頻度で寺社関係に参拝している。たとえば、村松大神宮、静参拝、七面大明神、枕石寺、大里参詣(阿弥陀堂)、瑞龍拝、等々。
そこに、
五月 朔日 五文 さんせん(賽銭)
六月 十五日 廿四文 さんせん(賽銭)
七月 朔日 十五文 さんせん(賽銭)
と、12月まで続けて参拝している場面がある。参拝場所が書かれていないためどこに参拝したのか不明だが、参拝日が朔日と十五日とに限られているため、これを参考にすると富士講参拝につながるのかなとも思うが、常陸太田市史 民俗編や金砂郷村史、瓜連町史等に富士講に関する記載はない。 私の書庫とでもいうべき日立市立図書館にも参考になる文献がない。(私の書物捜索能力がとぼしいのもあるが) インターネットで検索すると、江戸末期には幾度も富士講禁止の御触れが出され、嘉永二年(1860)富士講の完全禁止となり、その後の明治の混乱期、大正2年の大震災、第二次世界大戦などの影響で講の衰退、あるいは地域によっては消滅したとある。中野冨士山古墳は字名の冨士山を古墳名に採用したが、地元の人達には古墳との認識はなく、富士講に関する場所との認識も希薄だったようだ。他にも、常陸大宮市岩瀬にあった富士山4号墳地点付近も富士講の参拝地点の可能性がある。 さて、仮に鴨志田又左衛門直升が富士講の参拝をしたとすると、どこの地点に参拝したのか。 中野冨士山古墳地点ではなく梵天山古墳群中の6号墳(富士山塚古墳)地点か小島町にある鹿島神社だと思う。なぜなら、昌夫氏の記述によると小島村の住民は宝金剛院の檀家で島村とのつながりがある。 金砂郷村史には
鹿島神社 小島字宮戸
祭神は武甕槌命。 中略 富士浅間神社(木花開耶姫命)他に星神社がある。氏子は小島の一四一戸。 中略 社伝によるとこの地には星ノ宮がもとから鎮座していたが、応永年中に鴨志田・高畠両氏が鹿島明神をか勧請した。その後寛文年中に水戸藩の一村一社の制度によって、両社を同一境内の一社として扱うこととなった。星ノ宮の記録によると「小島村星ノ宮は、昔鴨志田・高畠両氏が本郷山鹿島社境内に勧請し、水戸藩主光圀が寛文年間に一村一社と定めたために、同一境内に二社を祀った。明治六年(1873)合殿となり、鹿島社は村社、星ノ宮は無格社となったが、明治十五年三月四日字清水の鴨志田氏の地に星ノ宮を移した」以下略 とある。これらが示すように、鴨志田家の星神社と鹿島神社とのつながりの深さがうかがえる。
さて、ここから中野冨士山古墳の話になる。以前、地元の方との雑談で、後円部にある祠は別の場所にあったものがここに移されてきたのだろうとに意見があった。その時は別に気にも留めなかったが、鴨志田家文書に接して刺激され、祠に刻まれた文字から検討を加えたい。
画像上段は、2012年2月26日古墳発見時の後円部の画像である。 祠は2基あり、ひとつは
天明四辰 (1784) 十二月 吉日
世話人 下坪
小林太右衛門
池崎 十蔵
同藤田村
池崎 政衛門
もうひとつは、
文化十三年子(1816)十二月
との文字が刻まれている。これを参考にして検討してみたい。各々の年号の意味するところは、天明の飢饉や世相不安などの感情の発露だと思う。 下坪は中野町の現在の県道61号と62号線が交わる交差点南西の地点の部落を指す。藤田村の池崎と中野村の小林、池崎ではなく、わざわざ下坪と表記するのは、中野村の意味ある地点に敷設する祠だから、中野村ではなく部落名を刻んだと推察したい。現在の地が少なくとも天明期より中野村と藤田村の人々の信仰の場として意識されてきたことは、現状の状況立地から推察されると思う。その後の歴史的変遷の過程で、その意味と意義が消滅あるいは希薄になって、地名に痕跡をとどめるのみになってしまっのだろうと思う。 結論として、祠は当初からこの地の敷設されたものであると思われる。 現在も下坪地区と藤田町には池崎姓の方が居住されている。
参考文献
鴨志田昌夫 古文書を聴く
ー鴨志田昌夫歴史論文集ー あずさ書店 2016 9月
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