上段画像は、北から見た中野町の独立丘陵で、画像中心部には郡戸小学校の校舎が見えます。
この風景は、私にとっては故郷の風景のように思えるほど馴染んでいます。
この丘陵については、「茨城県立太田第一高等学校 史学会」が昭和33年6月3日に調査を行い「史考 第15号 10周年記念号 郡戸古墳調査報告」として、貴重な報告がなされています。 この郡戸ですが、元はこの付近は郡戸村でしたが、昭和30年久米村、金砂村、金郷村との合併で金砂郷村になり、その後の合併で常陸太田市中野町となったわけですが、昭和33年当時は郡戸村との意識が残っていたと思います。
さて、その「史考 第15号の調査報告」ですが、中野冨士山古墳がある丘陵南端部地点から郡戸小学校地点までを、史学部員13名が3班に分かれて調査を行ったとあります。
そこには略図が示されていますが、中野冨士山古墳の北側には道路が通り、いったん丘陵が途切れるのですが、それが示されていません。そして、中野冨士山古墳の存在に気が付かなかったのが理解できません。なぜなんだろう?
他には、この丘陵西側に展開する横穴墓を多数発見しています。 私達も調査したことがありましたが、地形的な問題で危険かつ藪化して困難を窮め一部しか調査できませんでした。 そんな貴重な「史考」を後世に残してくれた太田一校の先人の皆さんには感謝しかありません。
下段画像は、数年前に拾った「中野冨士山古墳」の埴輪?、土器片です。 焼成前底部穿孔の底部は数点採集されていますが、口縁部はなかなか拾えません。 試掘調査時にはそれなりに採集されていますが、特徴としては焼きが甘ため細片が多いです。