毎度、国土地理院の傾斜量図を拝借しています。
画像の赤矢印は南から(下から)、梵天山、星神社、中野冨士山、道場塚各古墳で、次に香仙寺、丸で囲った青木地区、そして大方鹿島神社古墳です。
今回、久慈川と支流の山田川と浅川とに挟まれて、南北に縦列に並んでいるように見える、梵天山古墳以下の古墳群と横穴墓群とを取り上げてきました。 参考になるかどうか、梵天山古墳などについて試しに話題の「AI」に聞いてみました。
〇梵天山古墳が北関東にある意味
常陸太田市にある梵天山古墳は、関東地方北部におけるヤマト王権との関係性を示す重要な存在です。 この古墳は、当時のこの地域の有力な首長が支配力を持ち、ヤマト王権と協力関係にあったことを示唆しています。
〇所在地の重要性
梵天山古墳は常陸太田市にあり、久慈川流域を支配したとされる「久自国造舟瀬足尼」の墓だと伝えられています。この古墳群が位置する常陸太田市島町は、標高30mほどの独立した丘陵上にあり、当時の交通の要衝であった久慈川とその支流からの視線を意識して築造されました。
〇ヤマト王権と地方豪族との関係
梵天山古墳の築造時期とされる古墳時代前期(4世紀頃)のヤマト王権は、現代でいう「朝廷」のような中央集権的な政府ではなく、奈良盆地を中心とした有力豪族たちの緩やかな連合政権でした。しかし、ヤマト王権はその勢力範囲を徐々に拡大し、4世紀から6世紀にかけて関東・北陸・南九州なども含め、日本列島各地を統合していきました。
〇豪族連合の実態
ヤマト王権は、大王(のちの天皇)と畿内の豪族が中心となり、各地の豪族とは主に貢納や奉仕を通じて関係性と築いていました。各地の豪族はヤマト王権に仕え、その権威のもとで一定の自治権を保持していたと考えられます。
(梵天山古墳、星神社古墳、中野冨士山古墳、高山塚古墳の発掘調査が行われて、今の「AI」には答えられないような、新たな知見が出てくるものと期待しています。)
