青葉考古学倶楽部
茨城県在住の元サラリーマンです。
2026年6月15日月曜日
ハンガリーのおもいで AQUINCUM
ローマ時代の遺跡がある地点にAQUINCUM MUSEUM(アクインクム博物館)はあります。 管内外にはローマ時代の石棺が展示されています。 それらの側面に刻まれている文字に向かってスマホを向けると、それなりに翻訳してくれます。 正確に翻訳しているかどうかは分かりませんが、4世紀ごろの文字が読めるのはある意味凄いことなんだろうと思いました。
2026年6月9日火曜日
ハンガリーの思い出 Vasverő a Bródy utcában
2026年6月5日金曜日
水戸市八幡町 水戸八幡宮
水戸市八幡町にある「水戸八幡宮」。 祭神は当然「誉田別尊」です。
由緒によれば、佐竹が水戸に入城した後、文禄元年(1592)に常陸太田市馬場にある馬場八幡宮よりこの地に勧進されたとあります。その後、光圀の時代には紆余曲折があったということのようですが、もとは三の丸の近くにあったのでしょうか。 立派な神社です!
2026年5月30日土曜日
いい天気の星神社古墳
回天神社に「水戸勤皇殉難志士名簿」があったので手に入れました。 374柱の墓標を端から見ていくと、ありました「鴨志田本介直列」の墓標。
星神社古墳のくびれ部にある鴨志田家の墓域には、本介直列の父である直準の墓標があります。夫人とともに名前が刻まれているので、天寿を全うしたのだと思いたいです。
2026年5月29日金曜日
水戸市 常盤共有墓地 2
殉難志士ではありませんが、常盤共有墓地のとなりの佳岸寺の墓地にある、中山備前守墓。
ちょっと分かりにくい場所にあります。その理由は、入り口の解説板に書いてありました。
入り口の門の内側の梁には家紋が刻まれていました。
また余談ですが、常陸太田市小島町所在の鴨志田家御本家のご次男、鴨志田昌夫氏が遺した著書「古文書を聴く」の中に、殉難志士に関係する記事が載っています。 長くなりますが一部要約して、掲載させていただきます。
第五章 水戸藩の郷士と鴨志田又左衛門家
兵学・松田流新流指南であった鴨志田又左衛門直升は万延二年(1861)二月二十二日に七十四歳で亡くなっている。(注16 万延元号は二月十八日までで、二月十九日には文久に改元されている。したがって、万延二年二月二十二日は存在しない。改元直後のことでこうした誤りが生じたのであろう。)その後、総領であった水之介が家督を継ぎ、同時に名前も又左衛門直準と改めた。
直升が亡くなる万延二年二月前後には、水戸藩はまさに未曽有の激動の時代を迎える。前年三月には水戸浪士による井伊大老殺害の桜田門外の変が起こり、三年後には水戸藩を二分する内乱であった元治甲子の乱が勃発している。(注17)そうした激動の中、明治維新を迎える。こうした時代に郷士・又左衛門直準がどのように生きていったかは、残念ながら史料が不十分で明らかにできない。
(注17)ちなみに、直準の長男本介直列は、元治甲子の乱に参加した。そして、那珂湊で幕府側に降伏し、武蔵川越から江戸佃島へ移され、慶応二年八月二十六日に二十一歳(十九歳とも。「幕末維新全殉難者名簿 一」新人物往来社 四百二十七頁)で獄死している。
以上。 合掌
2026年5月27日水曜日
水戸市 常盤共有墓地 1
光圀さんの元で活躍した、水戸黄門のドラマで有名な、安積澹泊の墓。ドラマのイメージとは違って有能な方だったようです。郡山市にある安積国造神社とのつながりもあるのかもしれません。 十竹さんは後継ぎがなく断絶したようですが、格さんどうだったんでしょう。
余談ですが、十数年前、ある歴史家の講演を聞く機会がありました。その中で、茨城から総理大臣が出ていないのはなぜなんだろうという発言がありました。 幕末に、優秀な人たちがことごとく亡くなってしまったのが原因ではとの意見が出ましたが、 あながち的外れな意見ではないなと思って聞いていました。
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