昨年の9月より茂木先生、箕輪健一、鈴木裕芳、各氏の資料を参考
にして古墳を観察してきましたが、県北地域を回ってみての中間報告
を試みてみたいと思います。ただあくまで素人の私の報告ですので、
トンチンカンな記述が有った場合はご容赦ください。
まずはじめに古墳の時代区分の定義について考えてみたいと思います。
だいたい3世紀末より4世紀後半までが前期。4世紀末より5世紀代が
中期。6世紀以降が後期とに分けられているようです。
その他研究者の方々は、川西編年や須恵器編年(TK23とかMT15とか)
など土器や埴輪の相対年代と対比する方法などもとられています。が私の
頭にはこれらはまだダウンロードされていないので、最初の単純な定義に
従って書いて行きたいと思います。
茨城の古墳に関する過去の資料を読んでみると、畿内を中心とした
時代区分と茨城での区分とを分けて考えていた時期も有ったようです。
それは、畿内より100年ほど遅れて古墳文化が流入したという考え方
です。近年、複数の研究者による古墳の測量調査、採集された土器や
埴輪の研究などにより、畿内との時間差はないとの考え方が示されて
います。
今回観察した古墳の中には、中期と思われる、水戸の愛宕山古墳
石岡の舟塚山古墳などが入っていますが、茨城の代表的古墳だと
言う事で入れていますので、ご理解ください。
それでは、県北で一番注目される古墳は、常陸太田市にある
梵天山古墳です。箸墓古墳型の墳丘、前期では東国5位の大きさ
を誇る古墳です。それよりも先行して築かれたとみられている
古墳があります。梵天山古墳から西に800mほどの所に有る
東国最古の前方後円墳の評価が下されている、星神社古墳です
採集されている埴輪片等、吉備のものと比べてみて岡山県の
研究者にも区別が付かなかったそうです。
関東平野のはずれ、陸奥の入口にこれらが築かれたことの
意味は大きいと思います。
その後に常陸大宮市に有る、五所皇神社裏古墳が作られたと
思われます。各主軸は東西、後円部東向きはヤマトの前期の
おもな古墳と同じです。
つづく