2014年10月27日月曜日

日立 田尻浜古墳群


日立市田尻町7丁目にある「田尻浜古墳群」。円墳9基からなる古墳群となっている。藪の奥にある古墳は観察できなかった。畑に残存する高まりも古墳なのかもしれない。海を見下ろす高台に築かれており、円筒埴輪、人物埴輪片が出ているとなっていて注目すべき古墳群になると思う。

日立 滑川浜古墳


日立市東滑川町、観音院の南側、小さな三峰陸橋近くにある「滑川浜古墳」。円墳が単独であり、詳細不明。

日立 浜の宮古墳群

日立市東町3丁目にある「浜の宮古墳群」。円墳3基からなる古墳群となっているが、現在雑草に覆われており観察が困難である。

日立の海岸線



現在の東町、田尻町から見える日立の海岸線です。

2014年10月26日日曜日

日立 高磯古墳群






日立市日高町の海岸線にある「高磯古墳群」。東連津川より南に1.2kmほどの塩釜神社のある地点に3基の円墳からなる古墳群で、一基は祠がのり周溝の痕跡が見え、もう一基は、崖の崩落のため半壊。そしてもう一基は盗掘穴から石材の一部が見える。規模としては結構大きな古墳になるのではと思う。須恵器が伴うこの古墳の立地から考えると、Lighthouse的機能?を持っていたのではと思う。

日立 東連津川



小木津町と折笠町の間を流れている「東連津川」。東に連なる港とも読めるな、などと思ったりして。河口部には横穴式石室が露出しているとなっている「松木下古墳」があるが、じつは、今日はまだ見ていない。この古墳、河川流域というよりは、海岸線を望む位置にあるのではと思う。地域の方達が出している「東連津川風土記」という冊子を拝見すると、河口部は過去、今より南側に湾曲しながら海へと流れていたそうな。そして、河口部から北方には川尻港が望める。なお、この東連津川上流部には、約5億年前のカンブリア紀の地層があるとなっている。

2014年10月24日金曜日

常陸太田市 小森明神古墳




大子町へドライブに行くときに立ち寄った、常陸太田市 旧里美村 大中町の国道349号線沿いにある「小森明神古墳」。円墳となっていて、石室の一部が見えており、スコープがあれば中を覗けそうだ。

2014年10月19日日曜日

日立市 西大塚古墳群




日立市南高野町にあった「西大塚古墳群」。周辺は南高野団地とよばれる住宅地となっています。昭和41年10月、坂本小学校の新校舎建設のために4基あったとされるこの古墳群は消滅してしまい、詳細は「茨城県史料 考古資料編 古墳時代」にのっていますが、学校名に間違いがあるようです。現在、坂本小学校校庭に復原された石室が保存管理されて見学することができます。ちなみに、旧坂本小学校は大橋公民館として現存しており、映画のロケにも使えそうだな思います。
( 片平さんより、この古墳についての進言があり10/22に訂正いたします。この石室は発見当時のままの状態で、校舎改築のさい、この石室保存重視で校舎整備が行われたということです。担当者の方の心意気がすごいです。)

常陸大宮と集中曝涼



昨日、常陸大宮市歴史民族資料館へ企画展を見に行く途中、常陸太田市が主催し集中曝涼展示されている、坂上田村麻呂が奉納したとされる刀を見に、常陸大宮市下町所在の甲神社にお邪魔した。神社では茨城大学の学生、OBの方による説明がありパンフレットもいただいた。ありがとうございました。大宮の資料館の展示は県北部の弥生時代が解りやすく展示されていて、いただいた素敵なパンフレットには、泉坂下遺跡発掘調査の経緯がさかいひろこさんのイラストを中心に描かれており、鈴木さんらしき似顔絵もありました。

2014年10月13日月曜日

特殊器台復刻プロジェクト

ネットで「吉備特殊器台復刻プロジェクト」なるホームページをみつけた。アマチュアの方達が中心の活動だとのことだが、その準備段階からシンポジウム等の画像があり、陶芸家を含む各専門家も参加されているプロジェクトのようだ。そのなかに、高橋 護さんの講演の画像があった。不勉強な私は、特殊器台というと近藤 義郎さんが中心の研究だと思っていました。画像を拝見すると、1947年、中学2年生の時 向木見での表採から研究がスタートしたとのこと。You Tubeにも関連する画像があり、そこには器台の胎土成分や成形方法等専門的な話も含まれています。勉強になるなぁ。 その末端に連なるのだろうか星神社古墳の埴輪。 市原にある破片とひたちなかにある破片とが、接合できる時が来るといいなと思うところです。

2014年10月8日水曜日

北茨城市 大津・関本





まだ、完全な復興とはなってはいない北茨城市にある大津港。古代の海上交通の拠点である「梁津郷」ではと推定されている地点でもあるが、この地域の古墳を観察に行ってきた。まずは、成顕寺境内にある「大塚山古墳」。だいぶ変形しているが、円墳だとすると径50mをこす大型円墳になる可能性がある。美術館近くにある古墳は藪の中にあるため後日見学することにした。その後、関本地区に移動し、関本中学校そばにある「稲荷塚古墳群」も藪の中。楊枝方にある「塚山古墳」も見に行ったがたどりつけなかった。かわりにパラボラアンテナを見ることができた。 海岸線にある「大塚山古墳」は採集された土器から5世紀の築造ではとの見解になっており、規模からすれば首長墓と言っていいと思う、福島の研究者である柳沼賢治さんの論考に「太平洋に面した古墳で南端に立地しているのは玉山古墳である。現在の海岸線から約4kmにあり、東にのびる細い丘陵の先端付近に築造されている。眼下の沖積地は、海に向かって南東に広がっている。これより南の地域で主要な古墳が築造された久慈川河口付近とは約70kmの隔たりがある。この距離は、久慈川河口からさらに南に位置する大洗日下ヶ塚(鏡塚)古墳との距離の約3倍である。太平洋に面した常陸北部から宮城県名取までの間には断崖が多く、広い沖積地が少ない。ゆえに、太平洋沿岸の関東地方北部から東北地方南端の間に古墳の空白域ができたのであろう。」とあるが、この「大塚山古墳」の存在が、その一部を否定することになるのかもしれない。だが、古墳時代の太平洋海上交通を語るうえで、埴輪や大廓式土器などの動向からの柳沼さんの考察は重要な存在だと思う。なお、北茨城の古墳及び各遺跡については早川さんがすでに網羅的に調査されていると教えていただいた。