2025年7月9日水曜日

昭和の戦争





 日立市郷土博物館にて開催されている「戦後80周年記念ギャラリー展 昭和の戦争」を見学してきました。

わりとこじんまりとした展示ですが、遺品や写真には歴史的な重みを感じました。

兄が亡くなって、今、実家の整理をやっていますが、私も知らなかった父の遺品がありました。  満州に、飛行機の整備兵として従軍していたことは知っていましたが、各務原にあった陸軍航空隊に所属していたことは知りませんでした。 昭和17年は父が24歳の頃でしょうか。 どんなことを考えながら生活していたんでしょうかね、聞いておけばよかった❣

そして、3段目画像に注目してください。 アメリカ軍が広島、長崎に落とした原爆の、パンプキンとも呼ばれた模擬原爆だそうです。 これを日立市以外、日本各地に落として訓練と情報収集していたそうです。

詳しくは、島崎和夫さん主催のホームページ「日立市の歴史点描」のなかの「戦争と戦災」のコーナーに、奥住喜重さんの詳しい記録が載っています。

このようなことを見てくると、大国の強権は正義になるのでしょうね。 今のロシア。 中東での戦争で後ろにいるのはアメリカ。 アジアでは嘘つき大国のC国。  小国の日本はどうすればいいの?


2025年7月4日金曜日

常陽藝文 6月号


 6月に行われた考古学協会の総会・研究発表会の会場で購入した、常陽藝文 2025年6月号  です。 「国史跡指定50周年 特集 虎塚古墳を探る」公益財団法人常陽藝文センター

虎塚古墳は、発掘調査においては明治大学を中心に、多くの方たちが参加された調査だったと様々な文献において見知っていました。 この藝文6月号は、茨城考古学のレジェンド阿久津久さんから見た、虎塚古墳発掘調査のドキュメンタリーと言ってもいいような内容だと思います。

分かりやすい解説で、それでいてなかなか深い内容になっていると思いますし、記録保存としても重要なものになると思います。 そして余談ですが、阿久津さんは、イケメンだった、いや、イケメンなんですね。  そんな画像があるのも、見所のひとつだと思います。

2025年6月29日日曜日

とらえ方の変化


雑草が伸びてきている梵天山山古墳。



稲は順調に成長している星神社古墳。



こう暑くなってくると、雑草が繁茂している古墳への立ち入りは遠慮したい中野冨士山古墳。

前期前方後円墳3基が集中している所に、大型円墳もある。 それらが発掘調査され、2年後に報告書が発刊される予定になっているようです。

趣味の領域で考古学もどきを始めた私ですが、常陸太田市での遺跡分布調査や発掘調査までかかわりができるとは思ってもみないことでした。 今でも趣味のつもりでやっていますが、ここまでエスカレートするとは、自分でも驚きです。

今まで、各地の古墳観察を行ってきましたが、とりわけ常陸太田市の、その中でも旧金砂郷町付近にある古墳へは愛着を持って接しています。 それぞれにバリエーションがあり、おおよそ、各時代を追える古墳群で魅力的だと思っています。

それらの中の注目されている古墳が発掘調査され、古墳の内容の一部が見えてきました。
今までは表情からだけの評価でしたが、これから多少は内実からの検討・評価が期待できるでしょう。   そう、とらえ方が進化したんです!
 

2025年6月24日火曜日

検討会




常陸太田市教育委員会の一室にて、県内外の研究者13名が参集され、梵天山古墳・星神社古墳出土の埴輪検討会が行われました。

私は、担当者のY氏からお誘いを受け、参加させていただきました。

冒頭、Y氏の挨拶から始まり、あの某K氏の推・想定復元だとする星神社古墳の埴輪への推論があり、それから、各研究者の方々の観察発言が飛び交い、素人の私にとっても刺激的なひと時でした。       ありがとうございました。

そして、漏れ伝わり聞いたことですが、近い将来日立市において、歴史好きな方が驚くような発表があるようです。  期待していいと思います。 
 

2025年6月22日日曜日

総会・研究発表会


昨日、県立歴史館にて、茨城県考古学協会の総会及び研究発表会が行われました。

常陸太田市教育委員会のY氏から、梵天山古墳と星神社古墳についての発表がありました。 発掘調査から3か月ほどしかたっていないので、中間報告的な内容でしたが、さりげなく、両古墳の築造時期についても語っていました。 まあ、動くでしょうね。ご苦労様でした。


そして、休憩時間にミュージアムショップを覗いていたら、佐竹マーク付きの坂東太郎のTシャツがあり、常陸太田へ出入りしている者として、これは必要だと思い衝動買いしてしまいました。うぅ~ん!これが今日の最大の収穫だったかなと思っていたら、この後、某K氏から、刺激的な資料をいただいてしまいました。  やっぱり星神社古墳の埴輪はスパイシーなんだな!  ありがとうございました❣

それから、常陸太田市の前期古墳として、梵天山、星神社の両古墳に注目が集まっていますが、中野冨士山古墳も発掘調査が行われていて、それなりの資料があるはずです。 
ただ、手抜きなのか、へたくそだったのか、土器類の焼きが甘いため細片が多く、なかなか評価しづらい部分があると思いますが、お忘れなく注目していただきたいと願います。
 

2025年6月16日月曜日

野口雨情記念館 2



 常設の展示も拝見すると、古代から現在までの海を介在しての暮らしから、一時期、山の恵みの石炭が経済を活性化させた状況が見て取れます。

今の北茨城市の人口は、38,600人ほどだそうどで、将来がどうなるんだろうと考えさせられます。  今後増えるらしい外国からの移住者に、全国にあるこのような地方自治体が、乗っ取られないようにしていただきたいと願っています。


2025年6月15日日曜日

野口雨情記念館 1

鈴木文字が出迎えてくれた、野口雨情記念館。 歴史民俗資料館でもあるんですね。





企画展、「発掘された北茨城といわき 古代多珂郡と菊多郡 磐城郡」を見学してきました。

所謂、いわきと北茨城とのコラボ展示ですね。 パネル展示で塩田川流域にある古墳なども取り上げられていて、地名でいえば「小野矢指」と「大津」は、個人的には注目地点だと思っています。
 

2025年6月10日火曜日

目撃 ほっこり会話


                JR常陸太田駅前の交差点。  

          脇から出てきた、バイシクルライダーのお父さん。

          ハーレーライダーのお兄さんに。 かっこいいね!

          あざっす!

          俺も昔は乗っていたんだよ。

         お父さんのヘルメットとサングラスと、ママチャリもかっこいいよ。

         ありがとうね。 気を付けてぶっ飛ばしていきナ!

         ウイッス! ジャーね!!


             そんな会話だったんだろうか?

2025年6月9日月曜日

緑の中の古墳


常陸太田市小島町の集落方面から見た「梵天山古墳」です。 が墳丘は直接見えません。

宝金剛院の入り口階段は、まだ工事中なんですね。さぞ、立派なものになるんでしょう。
 

2025年6月8日日曜日

田植えと古墳




 そろそろ梅雨入りなんでしょうか。 
 
最近、田植えが終わったばかりなように見える「星神社古墳」です。

田植え機の出入り口もありました。

トレンチの「跡」も薄れつつあります。

2025年6月4日水曜日

冨の文字


 大洗町のT氏が、フェイスブックで「中野冨士山古墳」のことについて言及してくれています。 私も当事者の一人だったので、このことについて一言述べたいと思います。

常陸太田市中野町にある「中野冨士山古墳」の命名については、地元の方のご協力で、法務局へ出向いて地籍図などを確認していただいたりして、最終的には、古い地名に「冨士山」の文字が使われているということで冨士山を、「あの方」が採用しました。 さらに、あちこちに富士が付く古墳名があるので、町名の「中野」をつけて、中野冨士山古墳となりました。

余談ですが、お隣の常陸大宮市にある「五所皇神社裏古墳」と「五所皇神社古墳」と、名前が迷走しているようですが、これは、茨城考古学の重鎮であるT先生が五所皇神社裏古墳と命名されたと聞いています。 それでいいんじゃネ!と思いますが。

そしてもう一度確認します、富ではなくです!

 


2025年6月3日火曜日

思い出


 2008年5月に訪れた、群馬県榛東村にある「耳飾り館」。

だいぶ記憶が薄れていますし、当時はあまり写真を撮らなかったので、これだけの画像です。 耳飾りは、敷地内ににあったシンボルのオブジェです。

この耳飾り館は、縄文晩期ごろの茅野遺跡から出土した耳飾りを中心として展示されているそうで、バイクで道に迷いながらたどり着きました。
その時は気が付かなかったのですが、帰り道、なだらかに、ずーっと下り坂で榛名山の裾に、皆さんが暮らしているんだなと気が付きました。

茨城県に居住していては、火山の裾野に暮らす生活は体験できないでしょう。 それが、印象に残りました。

2025年5月15日木曜日

低所にある古墳 5 蘆間山古墳

小貝川の堤防から見た、蘆間山古墳です。


県道14号線から古墳がある方へ右折すると、火災現場と古墳とのツーショットです。



水戸方面から国道50号線を進んできて、長辺寺山古墳がある岩瀬をすぎ、旧下館辺りまで来ると、ああ、関東平野なんだなと実感する。 360度視界が広がり、県北の陸奥の入り口の景観とは大違い。 でも、そんな狭小な地域にも見えるところに、梵天山古墳、星神社古墳やその後の横穴墓群まで多数存在する事実は、当然重要です。
でも、広々とした関東平野はやっぱり魅力的だな。
 

2025年5月14日水曜日

低所にある古墳 4 蘆間山古墳



 筑西市 旧下館の徳持にある、蘆間山古墳。

小貝川に架かる橋から撮った画像です。 右側の茂みが蘆間山古墳で、左側には、皆さんご存じの筑波山です。 このような位置関係です。

陰影起伏図を見てみると、小貝川と五行川との合流点近くにある、前方部が不鮮明ですが、蘆間山古墳の状況がよくわかります。  初めてこの古墳を見に来た時、小貝川のすぐそばに築かれていたので、少々驚いた記憶があります。 それだけ、河川とその合流点が重要な意味を持っていたのでしょう。 そして、この一基だけがぽつんと、この地に出現したことは、まさに、象徴的な出来事だったのではないでしょうか。

その後、南東方向1.5kmほどの所にある馬の背状地に、台畑古墳と灯火山古墳とが出現して、順調に地域開発が進行していったんでしょうね。  おそらく。

低所に築かれた星神社古墳と蘆間山古墳は、そのことだけで、相通ずるものがあるのかどうか、今後埴輪などの検討も加えて、研究が進展することを期待したいです。

低所にある古墳 3 星神社古墳


 国土地理院の陰影起伏図を借用しています。 真ん中に見えているのが、星神社古墳です。  この画像が一番わかりやすいのかもしれません。

右側には、島の独立丘陵にある梵天山古墳その他と山田川があり、左側には、中野の丘陵に中野冨士山古墳と浅川が見えています。 やはり、私的には星神社と梵天山との間にある、小島の集落は気になります。 その他の周辺はほとんどが田んぼになっており、当時の河川の状況はどうだったでしょうね。

いずれにしろ、久慈川とその支流との合流地点付近が重要だったんだろうなと想像します。

この画像を見ていると、「そこに山がなかったから」低所に築かれたのではなく、河川流通と地域開発の最前線に築かれた古墳のように思えてきます。


2025年5月13日火曜日

低所にある古墳 2 星神社古墳

北西方向から星神社古墳越しに小島の集落方面を見ていますが、梵天山古墳は見えてきません。  古墳築造に不足がないように思える小島の台地に古墳は無く、両者を遮るような立場になっている小島の意味は、星神社古墳と梵天山古墳との関係性に影響しているようにも
えてきますが、どんなもんでしょう。  これは、あくまで私の妄想です。 悪しからず。




その他、北から北東方向、大里から大方方面は視界が開けていて、東南方向、特に上河合町方面は、久慈川河口部付近まで、当時は見えていたのではと思います。           低所にあっても多方面から認識されやすい立地ではあると思います。

あとは、古墳の周辺の環境はどんなもんだったんだろうと。 湿地帯だったのか。
古墳築造と同時進行で、周辺開発のシンボルとしての古墳だったのか。
 

2025年5月12日月曜日

低所にある古墳 1 星神社古墳



 昨日の、常陸太田市小島町にある、星神社古墳。  鳥居前の田んぼには、まだ水が入っていませんでした。

この古墳へは、2008年頃から頻繁に通い詰めて観察してきました。 ですから、詳細なことまで分かっているつもりでいました。 ですが、今年行われて発掘調査で新たな知見が出現しました。 そのなかのひとつに、この墳丘の築造方法が、全部盛土で築かれている可能性が高いことです。 他の中野冨士山古墳以降、調査されている古墳はいずれも地山削り出し後、盛土で形を整える築造方法でした。 しかも、なぜこの古墳だけ水害にあう可能性が高い低所にわざわざ築かれたのか。  

この、確信的に低地こだわったであろうこの古墳と、私が実見したことがあり、これと似た環境にある、蘆間山古墳とを見比べてみようとおもいます。

先ずは、星神社古墳から周辺への視認性を見てみましょう。 この古墳の西側方面には中野の丘陵が見えて、そこには中野冨士山古墳があるわけですが、丘陵越しには、久慈川支流の浅川、その先の久慈川流域付近まで見通せます。

2025年5月7日水曜日

常陸太田巡回 7






 大里町にある阿弥陀堂の近くにある、北宿古墳。  横穴式石室で、埴輪は採集されていない、前方後円墳。 石室入り口の石材が見えています。 後円部と前方部とは地主が違っているらしく、墳丘の手入れの状況に違いがあり、前方部の藪の中には祠があります。