3月で発掘調査が終わり、もう師走になってしまいました。 う~ん 速いな~!
まあ、13日に駒澤大学で行われる研究会に参加させていただき、その成果を拝聴して今年も終わりの気分になっていくんだろうな。 うん。
3月で発掘調査が終わり、もう師走になってしまいました。 う~ん 速いな~!
まあ、13日に駒澤大学で行われる研究会に参加させていただき、その成果を拝聴して今年も終わりの気分になっていくんだろうな。 うん。
高戸の浜の奥にある駐車場の脇から藪に突入し、急斜面を登っていくと、マウンドがあった。
この地点は、茨城県遺跡地図ではノーマークになっている。 36.3mのピークが古墳らしい地点になっているが、私には古墳かどうか判断できない。 これが古墳だと判断されたら、新発見なのかもしれない。
この丘陵付近には、高戸摩崖仏、高戸岩陰遺跡があるとなっている。
今回本当に久しぶりに「藪漕ぎ」を行いましたが、急斜面を上り下りし、帰りには方向を見失い、海岸線の絶壁の上に出てしまったりと、冷や汗をかき感覚も肉体的にも衰えたなと実感しました。 あらためて、青木さんをはじめヤブレンジャーさんの活動のすごさを思い知らされました。 知人のイガレンジャー氏は単独行動が多いようなので、くれぐれも怪我のないように気を付けていただきたいです。 ありがとうございました。
残念ながら、宮司さんが不在なようでいただけませんでしたが、眺めがいいです。
この地一帯は唐帰山遺跡となっていて、平成6年に調査されているようです。さらに、境内には「亀塚」という塚もあります。
その後、役所に出向いて古墳地点の地籍調査や、古墳測量調査に向けた墳丘の藪の伐採作業や測量調査時、墳丘の発掘調査時と折々において大変お世話になりました。 重ね重ねありがとうございました。 拝礼。
この中で、イガレンジャー氏の文章の中に気になるものがあった。
「太田勝景誌という明治三十四年(一九〇一)に出版された書籍には、かつては、鯉沼という沼が城の東にあった。天然の水堀や灌漑の役割を果たしていたものと思われる。また、中世の伝承として岡田(常陸太田市岡田町)近くまで、海が入っていた(入海)とされる。太田城が海に接していた可能性がある。太田城は街道の要衝と水運を抑える拠点城郭だったのである。」
この岡田町やその西側に当たる地域の小沢町、磯部町、谷河原町、藤田町、そして梵天山古墳がある島町などは水田地帯が多く、海抜も似たよう高さになっている。
国土地理院の治水地形分類図を参考にすれば、久慈川とその支流も時代によっては流れを変えてきている歴史があり、島町付近の高台に上れば、久慈川の河口部が望める地点でもある。太田城まで海が迫っていたとすれば、中世においても梵天山古墳の付近まで海が迫っていた可能性も見えてくる。
ほんとかな?
他には、私も注目している大阪柏原市ある「高井田横穴群」も取り上げらています。 この地点は、横穴墓だけではなく「高井田古墳」も注目です。 そして、大和川を挟んだ対岸には、玉手山古墳群や津堂城山古墳を筆頭に古市古墳群が展開しており、まあ 注目だらけなんですけどネ。
そして、考古学協会会長 瓦吹さんの「私的茨城考古学外史ー遺跡・人 出会いと別れ」の連載もたのしく拝読しております。
虎塚を見た後は、ワンケースミュージアム65「海を臨む石棺墓」展を見学。
11年前の稲田氏の論考「イワキとヒタチ」のなかで、ひたちなかの太平洋沿岸に位置する古墳群を「ひたちなか海浜古墳群」していますが、この石棺墓群もその範疇に入っています。 論考の中では、イワキとのつながり強調されていますが、当然南方との関係性も示唆されています。 さかのぼれば十王台式から、太平洋を介在したそれらの基礎的なテクニックは、墓制はともかくある程度の範囲で構築されていたのではないでしょうか。 どうだろう?