54mの所に築かれています。 立地からすれば一番古そうにも見える古墳ですが、実は過去
にはもっと高いところにあり、古墳の可能性がある地点を発見しています。
2014年1月に花房町オチドリにある丘陵で、標高約59m。径10mほどのマウンド
で、周辺には2基の小さなマウンドもあり、これらは古墳の可能性ありとして教育委員会に
登録されています。 まあ、そんなことより中野冨士山さん、来年もよろしくね‼
54mの所に築かれています。 立地からすれば一番古そうにも見える古墳ですが、実は過去
にはもっと高いところにあり、古墳の可能性がある地点を発見しています。
2014年1月に花房町オチドリにある丘陵で、標高約59m。径10mほどのマウンド
で、周辺には2基の小さなマウンドもあり、これらは古墳の可能性ありとして教育委員会に
登録されています。 まあ、そんなことより中野冨士山さん、来年もよろしくね‼
でも、忘れてはならないのは、調査にあたって「宝金剛院」さんにもお世話になっています。
梵天さん・宝金剛院さんお世話になりありがとうございました‼
以下がその下書きです。
星神社古墳の埴輪採集及び中野冨士山古墳の発見の経緯について
星神社古墳の埴輪採集
2011年3月11日、未曽有の大地震が列島を襲い、東日本を中心に甚大なる被害をもたらし永遠に記憶される日となった。そして、いまだ安寧な日々を取り戻せない人々がいる。
その日から半月ほどたった3月27日に余震があり道路が一部寸断している状況だったが、以前から定期的に踏査を行っていた常陸太田市及び東海村所在の古墳の状況を確認するため、ガソリンの残量を気にしつつ赴いた。各古墳の墳丘には被害はなかったが墳丘に樹立されている石造物、建造物はことごとく転倒、倒壊していた。星神社古墳も例外ではなく、前方部にある鴨志田家歴代の墓石が転倒、後円部にのる星宮の社殿は北側に向かって倒壊していた。5ケ月後の8月11日社殿が取り壊され、瓦礫は周囲に積み重ねられている状態になっていた。土が一部動いたため埴輪が数点露呈しており採集した。そのおり、顔なじみになっていた地元の方から「近日中社殿再建に向け星神社古墳に重機が入り、基礎のコンクリートの撤去作業が行われる」との情報を得た。8月28日は考古学協会総会の日だったが、その前に状況を確認するため星神社古墳に立ち寄ってみると、くびれ部から後円部にかけて重機が上がった轍があり、コンクリートが撤去され整地もされて、そして砂がまかれて注連縄が張られ地鎮祭完了の状態を示していた。ならされた表土は周囲に盛り上げられ埴輪が点在していた。この事態は直ちに常陸太田市教育委員会の耳に入ることとなり、担当職員と氏子代表との話し合いがもたれたらしく、その後社殿再建への動きは中断した。私は、今後墳丘上にある瓦礫撤去に伴い、よせられた表土もろとも埴輪も廃棄れるのではとの危惧をいだき、関東でも希少な存在の埴輪を後世に残したいとの思い出埴輪採集に勤めることとした。これは翌年までほぼ毎週の行動となった。その後寒くなってきた12月18日、後円部にコンクリートの基礎ができていて社殿再建への動きが再開されていることを確認した。2012年2月5日、社殿が完成し瓦礫も撤去され重機の痕跡も修復されていた。2月26日、以前の社殿に使われていた「星宮神社」の額が掲げられているのを確認、現在に至っている。
中野冨士山古墳の発見
ことの発端は2010年までさかのぼる。この年の2月、茨城大学を会場にして東北・関東前方後円墳研究会のシンポジウムが開催された。会場では8ケ月ぶりに井 博幸先生にお会いし、その場で「土筆10号」や「金砂郷村史」で語られている金郷小学校(現金砂郷小学校)保管の埴輪(外面赤塗り発色は強く、器台形埴輪の可能性がある)を持つ古墳を探してみませんかとの打診を受けた。私の能力外のことだと思ったが「期待しないで下さい」の言葉で受諾の意思をお伝えした。今まで茨城県内外の古墳を踏査してきた事に加え、それからは、金砂郷小学校を基点に主に山田川流域の探査の意味合いも加味された踏査が加わった。2012年、視点を浅川流域に移して活動しようと思い、久慈川との合流点に近い中野町にある丘陵から始めることにした。常陸国風土記に記されている「古老いへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり」に比定されている地点である。2月12日、その南端の東よりに小さな鳥居がありそこから丘陵に登り始めた。遺跡地図に載る「東山古墳群」を観察する目的もあった。密生する藪をかきわけて最高地点あたりに来ると、前方に径30~40mの円墳状のマウンドが見えてきた。これが東山古墳なのかと思いながら北側に回り込むと、前方部が見えてきたので驚いた。墳丘に上がってみると間違いなく前方後円墳であった。その日はそのまま帰宅し自宅にある資料で確認してみた。翌週は、横浜で開催されたシンポジウムに参加したので踏査できず、その翌週の26日、再度中野町を訪問し古墳を歩測主軸も確認した。その後、常陸太田市西二丁目にある郷土資料館梅津会館を訪れ、知られていない古墳であることを確認した。3月2日、井先生へメールにて状況をお知らせした。3月28日、27日に井先生が来県され古墳を確認したとのメールを受け取った。 以上が井先生の進言から古墳発見までの経緯であるが、初願の古墳へは現在の所まだたどり着いていない。
下段の画像は、2011年3月の大震災で星神社古墳の後円部にあった社殿が倒壊したため、再建に向けて社殿を取り壊した状態です。
10月にパソコンを買い替えたおり、バックアップ用の外付けHDDに入っていた画像などを、しばらくぶりに確認したところ、懐かしい画像とともに存在を忘れていた文章が出てきました。
それは、上の画像の事象と中野冨士山古墳の発見がきっかけで、当時国士舘大学教授の 井 博幸氏 との共同調査研究が始まりました。 その成果を共著として「婆良岐考古 第35号」へ発表することになり、その下書きとして書いた文章でした。 ただ、紙幅の関係も考えずに書いた私の拙い文章ですから、井氏も困ったと思いますが、上手く要約していただいて掲載されました。
その忘れていた文章が出てきたのですが、まあ、当時は毎週のように活動していましたから、私の一つの画期になる文章なのでしょうか。 懐かしい思い出です。
興味のある方は以下次回をご覧あれ。
田舎者の高齢者には鬼門の渋谷駅をクリアしなければならない駒澤大学。 行きはヨイヨイ帰りは駅に入るのにも大渋滞で大変だった。 人手不足と言ってるけど、ありゃ嘘だな!東京にはいくらでも人がいるもの?
研究会は、発掘調査後の研究検討も道半ばなので、あくまで試論であるとの前提で始まりましたが、広瀬和雄先生がある意味重鎮としてのいい味出してました。 私は久しぶりの研究会だったので、少々疲れたましたが、なんだか少しは頭が良くなったような。
2年後に出る予定の調査報告書ですが、ゲストで発言した東海大学の某先生の個性的な内容に負けないよう、執筆者の皆さんには思う存分書きなぐっていただきたい。 期待を込めて‼
今までに上侍塚古墳、下侍塚古墳の現説が行われてきましたが、私は参加してこなかったので、最後の機会なのではと思い行ってきました。
この地にある3基の前方後方墳は近地に築かれてれており、調査の結果も似た様相なのかと思いながらやってきましたが、 否!! 葺石なし、土器が少ない、前方部が非対称なようだ、後方部に褐色粘土の塊を積み上げているようだ、などなど。 あきらかになった部分もあれば、今後の調査進展と検討が必要になった部分が多分に出てきてしまったという状況だと思いました。
説明者の話を聞いてると、なんかこの古墳がこの地の前方後方墳のプロトタイプなんじゃないのかなと妄想してしまいましたが、今後の進展が楽しみです。
3月で発掘調査が終わり、もう師走になってしまいました。 う~ん 速いな~!
まあ、13日に駒澤大学で行われる研究会に参加させていただき、その成果を拝聴して今年も終わりの気分になっていくんだろうな。 うん。
高戸の浜の奥にある駐車場の脇から藪に突入し、急斜面を登っていくと、マウンドがあった。
この地点は、茨城県遺跡地図ではノーマークになっている。 36.3mのピークが古墳らしい地点になっているが、私には古墳かどうか判断できない。 これが古墳だと判断されたら、新発見なのかもしれない。
この丘陵付近には、高戸摩崖仏、高戸岩陰遺跡があるとなっている。
今回本当に久しぶりに「藪漕ぎ」を行いましたが、急斜面を上り下りし、帰りには方向を見失い、海岸線の絶壁の上に出てしまったりと、冷や汗をかき感覚も肉体的にも衰えたなと実感しました。 あらためて、青木さんをはじめヤブレンジャーさんの活動のすごさを思い知らされました。 知人のイガレンジャー氏は単独行動が多いようなので、くれぐれも怪我のないように気を付けていただきたいです。 ありがとうございました。
残念ながら、宮司さんが不在なようでいただけませんでしたが、眺めがいいです。
この地一帯は唐帰山遺跡となっていて、平成6年に調査されているようです。さらに、境内には「亀塚」という塚もあります。