2025年12月25日木曜日

忘れていた文章 2



画像は、2012年2月12日に発見時の中野冨士山古墳と「婆良岐考古 第35号」です。

 

                                                   以下がその下書きです。


星神社古墳の埴輪採集及び中野冨士山古墳の発見の経緯について


星神社古墳の埴輪採集

2011年3月11日、未曽有の大地震が列島を襲い、東日本を中心に甚大なる被害をもたらし永遠に記憶される日となった。そして、いまだ安寧な日々を取り戻せない人々がいる。

その日から半月ほどたった3月27日に余震があり道路が一部寸断している状況だったが、以前から定期的に踏査を行っていた常陸太田市及び東海村所在の古墳の状況を確認するため、ガソリンの残量を気にしつつ赴いた。各古墳の墳丘には被害はなかったが墳丘に樹立されている石造物、建造物はことごとく転倒、倒壊していた。星神社古墳も例外ではなく、前方部にある鴨志田家歴代の墓石が転倒、後円部にのる星宮の社殿は北側に向かって倒壊していた。5ケ月後の8月11日社殿が取り壊され、瓦礫は周囲に積み重ねられている状態になっていた。土が一部動いたため埴輪が数点露呈しており採集した。そのおり、顔なじみになっていた地元の方から「近日中社殿再建に向け星神社古墳に重機が入り、基礎のコンクリートの撤去作業が行われる」との情報を得た。8月28日は考古学協会総会の日だったが、その前に状況を確認するため星神社古墳に立ち寄ってみると、くびれ部から後円部にかけて重機が上がった轍があり、コンクリートが撤去され整地もされて、そして砂がまかれて注連縄が張られ地鎮祭完了の状態を示していた。ならされた表土は周囲に盛り上げられ埴輪が点在していた。この事態は直ちに常陸太田市教育委員会の耳に入ることとなり、担当職員と氏子代表との話し合いがもたれたらしく、その後社殿再建への動きは中断した。私は、今後墳丘上にある瓦礫撤去に伴い、よせられた表土もろとも埴輪も廃棄れるのではとの危惧をいだき、関東でも希少な存在の埴輪を後世に残したいとの思い出埴輪採集に勤めることとした。これは翌年までほぼ毎週の行動となった。その後寒くなってきた12月18日、後円部にコンクリートの基礎ができていて社殿再建への動きが再開されていることを確認した。2012年2月5日、社殿が完成し瓦礫も撤去され重機の痕跡も修復されていた。2月26日、以前の社殿に使われていた「星宮神社」の額が掲げられているのを確認、現在に至っている。


中野冨士山古墳の発見

ことの発端は2010年までさかのぼる。この年の2月、茨城大学を会場にして東北・関東前方後円墳研究会のシンポジウムが開催された。会場では8ケ月ぶりに井 博幸先生にお会いし、その場で「土筆10号」や「金砂郷村史」で語られている金郷小学校(現金砂郷小学校)保管の埴輪(外面赤塗り発色は強く、器台形埴輪の可能性がある)を持つ古墳を探してみませんかとの打診を受けた。私の能力外のことだと思ったが「期待しないで下さい」の言葉で受諾の意思をお伝えした。今まで茨城県内外の古墳を踏査してきた事に加え、それからは、金砂郷小学校を基点に主に山田川流域の探査の意味合いも加味された踏査が加わった。2012年、視点を浅川流域に移して活動しようと思い、久慈川との合流点に近い中野町にある丘陵から始めることにした。常陸国風土記に記されている「古老いへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり」に比定されている地点である。2月12日、その南端の東よりに小さな鳥居がありそこから丘陵に登り始めた。遺跡地図に載る「東山古墳群」を観察する目的もあった。密生する藪をかきわけて最高地点あたりに来ると、前方に径30~40mの円墳状のマウンドが見えてきた。これが東山古墳なのかと思いながら北側に回り込むと、前方部が見えてきたので驚いた。墳丘に上がってみると間違いなく前方後円墳であった。その日はそのまま帰宅し自宅にある資料で確認してみた。翌週は、横浜で開催されたシンポジウムに参加したので踏査できず、その翌週の26日、再度中野町を訪問し古墳を歩測主軸も確認した。その後、常陸太田市西二丁目にある郷土資料館梅津会館を訪れ、知られていない古墳であることを確認した。3月2日、井先生へメールにて状況をお知らせした。3月28日、27日に井先生が来県され古墳を確認したとのメールを受け取った。 以上が井先生の進言から古墳発見までの経緯であるが、初願の古墳へは現在の所まだたどり着いていない。


        

2025年12月21日日曜日

忘れていた文章 1



 上段画像は、2010年当時金砂郷小学校保管の埴輪です。 2022年3月に小学校は廃校となり、現時点で私はこの埴輪の所在を把握していません。

下段の画像は、2011年3月の大震災で星神社古墳の後円部にあった社殿が倒壊したため、再建に向けて社殿を取り壊した状態です。

10月にパソコンを買い替えたおり、バックアップ用の外付けHDDに入っていた画像などを、しばらくぶりに確認したところ、懐かしい画像とともに存在を忘れていた文章が出てきました。

それは、上の画像の事象と中野冨士山古墳の発見がきっかけで、当時国士舘大学教授の 井 博幸氏 との共同調査研究が始まりました。 その成果を共著として「婆良岐考古 第35号」へ発表することになり、その下書きとして書いた文章でした。 ただ、紙幅の関係も考えずに書いた私の拙い文章ですから、井氏も困ったと思いますが、上手く要約していただいて掲載されました。

その忘れていた文章が出てきたのですが、まあ、当時は毎週のように活動していましたから、私の一つの画期になる文章なのでしょうか。 懐かしい思い出です。

興味のある方は以下次回をご覧あれ。 

2025年12月14日日曜日

考古学研究会 第67回東京例会



13日、駒澤大学にて開催されました、考古学研究会の第67回東京例会「古墳成立期の東関東の諸相」 ~常陸太田市梵天山古墳・星神社古墳の調査成果をめぐって~ に参加してきました。

田舎者の高齢者には鬼門の渋谷駅をクリアしなければならない駒澤大学。 行きはヨイヨイ帰りは駅に入るのにも大渋滞で大変だった。 人手不足と言ってるけど、ありゃ嘘だな!東京にはいくらでも人がいるもの?

研究会は、発掘調査後の研究検討も道半ばなので、あくまで試論であるとの前提で始まりましたが、広瀬和雄先生がある意味重鎮としてのいい味出してました。 私は久しぶりの研究会だったので、少々疲れたましたが、なんだか少しは頭が良くなったような。

2年後に出る予定の調査報告書ですが、ゲストで発言した東海大学の某先生の個性的な内容に負けないよう、執筆者の皆さんには思う存分書きなぐっていただきたい。 期待を込めて‼


 

2025年12月8日月曜日

上侍塚北古墳現地説明会








昨日、栃木県大田原市にある上侍塚北古墳の現地説明会に行ってきました。

今までに上侍塚古墳、下侍塚古墳の現説が行われてきましたが、私は参加してこなかったので、最後の機会なのではと思い行ってきました。

この地にある3基の前方後方墳は近地に築かれてれており、調査の結果も似た様相なのかと思いながらやってきましたが、 否!!   葺石なし、土器が少ない、前方部が非対称なようだ、後方部に褐色粘土の塊を積み上げているようだ、などなど。                あきらかになった部分もあれば、今後の調査進展と検討が必要になった部分が多分に出てきてしまったという状況だと思いました。

説明者の話を聞いてると、なんかこの古墳がこの地の前方後方墳のプロトタイプなんじゃないのかなと妄想してしまいましたが、今後の進展が楽しみです。


 

2025年12月5日金曜日

落ち葉のなかの星神社古墳





             落ち葉まみれの星神社古墳です。

3月で発掘調査が終わり、もう師走になってしまいました。  う~ん 速いな~!

まあ、13日に駒澤大学で行われる研究会に参加させていただき、その成果を拝聴して今年も終わりの気分になっていくんだろうな。 うん。

 

2025年12月2日火曜日

再訪 琯沚神社







高萩市高戸の浜から北方へ400mほどの所にある「琯沚神社」。

この地点は、茨城県遺跡地図に「高戸横穴」として登録されています。 この神社、凝灰岩を彫りこんで整地したところに建てられています。  すごいですね!

10年ほど前からか、海岸線近くにある古墳を海浜型古墳と呼称することが定着してきましたが、ここにある横穴墓群も海浜型でしょうね。 そうであれば、さかのぼって大洗町にある髭釜遺跡や一本松遺跡なども十王台式から続く海浜型住居跡と呼んでもいいのかも?
 

2025年11月29日土曜日

図説 茨城の城郭4を参考に 2




高萩市高戸の浜の対面にある丘陵が、青木さんによると「高戸南城」があるとなっている。

高戸の浜の奥にある駐車場の脇から藪に突入し、急斜面を登っていくと、マウンドがあった。

この地点は、茨城県遺跡地図ではノーマークになっている。 36.3mのピークが古墳らしい地点になっているが、私には古墳かどうか判断できない。               これが古墳だと判断されたら、新発見なのかもしれない。

この丘陵付近には、高戸摩崖仏、高戸岩陰遺跡があるとなっている。

今回本当に久しぶりに「藪漕ぎ」を行いましたが、急斜面を上り下りし、帰りには方向を見失い、海岸線の絶壁の上に出てしまったりと、冷や汗をかき感覚も肉体的にも衰えたなと実感しました。 あらためて、青木さんをはじめヤブレンジャーさんの活動のすごさを思い知らされました。 知人のイガレンジャー氏は単独行動が多いようなので、くれぐれも怪我のないように気を付けていただきたいです。  ありがとうございました。
 

2025年11月28日金曜日

再訪 佐波波地祇神社




せっかく大津に来たので、御朱印を頂こうと「佐波波地祇神社」へ。

残念ながら、宮司さんが不在なようでいただけませんでしたが、眺めがいいです。

この地一帯は唐帰山遺跡となっていて、平成6年に調査されているようです。さらに、境内には「亀塚」という塚もあります。
 

2025年11月27日木曜日

図説 茨城の城郭4を参考に 1

茨城城郭研究会の青木 義一さんが自費出版された「図説 茨城の城郭4 県北追加編」の中に古墳の存在が示されている箇所があり、それを参考にさせていただいて、巡ってみた。






まず、北茨城市大津町にある、三峯神社地点。 鳥居に近づいてみると、見たことあるなと気が付いた。そういえば12年前にも訪れていた。 確かに社殿の後ろにマウンドがある。

茨城県遺跡地図には「三峰山遺跡」包蔵地、神社山林となっている。 たしか、塚じゃないかなという文章を読んだ覚えがある。  私には判断できない。

2025年11月20日木曜日

お世話になった方の葬儀




2012年2月の中野冨士山古墳発見から、古墳近くに居住されている鴨志田 清さんとのお付き合いがはじまりました。

その後、役所に出向いて古墳地点の地籍調査や、古墳測量調査に向けた墳丘の藪の伐採作業や測量調査時、墳丘の発掘調査時と折々において大変お世話になりました。 重ね重ねありがとうございました。            拝礼。


 

2025年11月18日火曜日

本当だろうか



 私の知人二人が執筆に参加している「歴史研究 特集 佐竹と常陸太田城」です。

この中で、イガレンジャー氏の文章の中に気になるものがあった。

「太田勝景誌という明治三十四年(一九〇一)に出版された書籍には、かつては、鯉沼という沼が城の東にあった。天然の水堀や灌漑の役割を果たしていたものと思われる。また、中世の伝承として岡田(常陸太田市岡田町)近くまで、海が入っていた(入海)とされる。太田城が海に接していた可能性がある。太田城は街道の要衝と水運を抑える拠点城郭だったのである。」

この岡田町やその西側に当たる地域の小沢町、磯部町、谷河原町、藤田町、そして梵天山古墳がある島町などは水田地帯が多く、海抜も似たよう高さになっている。

国土地理院の治水地形分類図を参考にすれば、久慈川とその支流も時代によっては流れを変えてきている歴史があり、島町付近の高台に上れば、久慈川の河口部が望める地点でもある。太田城まで海が迫っていたとすれば、中世においても梵天山古墳の付近まで海が迫っていた可能性も見えてくる。

ほんとかな?

2025年11月14日金曜日

私のルーツ展




常陸太田市にある梅津会館にて、企画展「私のルーツ」が開催されています。

佐竹氏第二十代当主義宣の重臣     大繩義辰

都々逸節の確立者           都々一坊扇歌

医者・農政家・北方探検家       木村鎌次

金砂田楽の祭主を千年以上務めた家系  古川家

水戸藩彰考館総裁           豊田天功

以上の先人の功績と資料が展示されています。  そして何より、ご子孫のご先祖に対する思いも展示されています。 見どころですね!

上の画像は、木村鎌次の北海道探検時の資料、アットゥシとご子孫です。