2019年12月2日月曜日

久慈川右岸の古墳群 東海村2 別当山古墳




久慈川を少し遡上して、東海村石神外宿の石神小学校南側にある「別当山古墳」。以前にも紹介しましたが、村内最大の径52mの円墳。 村史には埴輪があり、5世紀の築造ではとなっていますが、現状では埴輪の採集は困難です。

2019年11月29日金曜日

久慈川右岸の古墳群 東海村1 白方古墳群



だいぶ寒くなってきて、ぼちぼちと始動しようと思っています。今回は、久慈川の右岸に位置する古墳群を見ていきたいと思っていますが、特に久慈川を意識している円墳に着目して歩いてみたいと思います。  まずは、久慈川の河口部にある「白方古墳群」。白方小学校敷地内にあるため撮影その他に気をつかいます。 およそ3kmほどある対岸に位置する「舟戸山古墳」との関係性も注目です。

2019年11月3日日曜日

秋の益子陶器市








益子町で行われている陶器市に行ってきた。今回は駐車場探しに少々苦労をし、帰りに渋滞も体験してきたが、相変わらずのワンコイン以内で買えるものを中心にゲットしてきた。

2019年11月1日金曜日

所要で那珂湊方面へ










ちょっと所用で那珂湊方面に行ったので、しばらくぶりに海岸線を散歩してみた。オフシーズンで平日なので道路はガラガラ、天気もいいし良い気分転換になった。 築造時期が明確になっていない、日立市の久慈川河口部にある古墳群と、北茨城市の海岸線に縦列に展開する古墳群と、この川子塚古墳とはリンクしてるよねと、 思いたい。

2019年10月30日水曜日

思い出したことなど





この度の台風19号により久慈川が氾濫したが、その支流の浅川の一部も氾濫した(二段目画像)。それで思い出したことがある。被災した方達に対して不謹慎に思えるかもしれないが、お許しいただきたい。 2012年、常陸太田市松栄町にある道場塚古墳地点(上段画像)の地主である、当時86歳とおっしゃっていたKさんから話を聞いたことがある。K氏さんが子供のころ浅川の堤防が決壊し、その修復のため青年団がやって来て、古墳の土もろとも石棺も堤防に投げ入れたという。その時香炉も出土し誰かが持ち去った、という内容だった。Kさんの年齢から逆算すると、大正15年(昭和元年)生まれとなるが、国交省の常陸河川国道事務所のホムページによると、久慈川は昭和3年より毎年のように氾濫している。支流の浅川も同様な状態だったろうと推察する。Kさんの子供のころというと昭和10年ごろの記憶であろうか。 その時石室は開口していたのだろうか? いやもう一つ別の記録がある。
以前、私が存在を再発見した道場塚古墳にまつわる古墳碑がある。(三段目画像以下)これには、大正十一年三月小島 嶋 粟原の水田へ、浅川より水を引くための工事が行われ、工事に必要な土どりのため道場と称する地を崩したとある。そして、その塚は上古の貴人の墳墓なる事を発掘せるさい刀剣がでたという。この碑文のニュアンスでは、大正十一年当時古墳との認識はなく、未盗掘の古墳だった可能性がありそうだ。刀剣以外の遺物はどうだったのかは碑文には無いし、石棺もどの様な石棺だっのか見てみたいけど、浅川のどこかの堤防の中で防災の役に立っているのでしょう。 香炉とする遺物も気になるところです。

2019年10月21日月曜日

今年も集中曝涼








今年は雨の影響で一日順延となったが、梵天山古墳と中野冨士山古墳とが公開された。
毎回、茨城大学の学生が応援に来てくれ、来場者への解説を受け持ってくれている。
ご苦労様でした。

2019年10月18日金曜日

常陸太田市ボランティア






台風の被害を受けた常陸太田市松栄町で、ボランティア活動をしてきた。お住いの、壁に残る高さ2,5mほどの水の痕跡は驚愕の極みで、初めての活動だったので、お役に立ったのだろうかと思いながら帰宅した。 低位置にある星神社古墳は問題ありませんでした。そのあたりは当時の方たちも当然考慮してたでしょう。 中野冨士山古墳の集中幕僚は20日に順延となりました。