常設の展示も拝見すると、古代から現在までの海を介在しての暮らしから、一時期、山の恵みの石炭が経済を活性化させた状況が見て取れます。
今の北茨城市の人口は、38,600人ほどだそうどで、将来がどうなるんだろうと考えさせられます。 今後増えるらしい外国からの移住者に、全国にあるこのような地方自治体が、乗っ取られないようにしていただきたいと願っています。
常陸太田市中野町にある「中野冨士山古墳」の命名については、地元の方のご協力で、法務局へ出向いて地籍図などを確認していただいたりして、最終的には、古い地名に「冨士山」の文字が使われているということで冨士山を、「あの方」が採用しました。 さらに、あちこちに富士が付く古墳名があるので、町名の「中野」をつけて、中野冨士山古墳となりました。
余談ですが、お隣の常陸大宮市にある「五所皇神社裏古墳」と「五所皇神社古墳」と、名前が迷走しているようですが、これは、茨城考古学の重鎮であるT先生が五所皇神社裏古墳と命名されたと聞いています。 それでいいんじゃネ!と思いますが。
そしてもう一度確認します、富ではなく冨です!