2020年4月28日火曜日
2020年4月26日日曜日
久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市2 根本古墳群
常陸大宮市泉字根本にある「根本古墳群」。 「続 常陸の古墳群」の萩野谷悟氏が担当した「常陸大宮市域の古墳群」と佐藤政則氏の「久慈川流域の前方後円(後)墳」を参考にさせていただく。
佐藤氏は「根本塚古墳群」として円墳3基と前方後円墳から構成される。この古墳群は、大宮町史と少し異なる部分もある。すなわち、大宮町史では遺跡番号が付してなく、地図上に前報後円墳が200m程ずれて存在している。 我々が確認した時点では、台地の縁辺にあり、しかも高さ1.5m、全長20m程の前方後方墳と確認した 後略、とある。
萩野谷氏は「2基の円墳で構成される古墳群で、 中略 過去に測量調査がされているが、古墳かどうかを含めて再検討の余地があるように思う」とされている。
画像はその1基と思われるが、佐藤氏と萩野谷氏とで見解の違いがあり、そのあたりは、周辺の宅地化された状況からうかがうことは困難なのかもしれない。
この台地の北東方向久慈川縁辺に「いずみちゃん」が出現した泉坂下遺跡があり、常陸大宮の注目地域でしょうね。
佐藤氏は「根本塚古墳群」として円墳3基と前方後円墳から構成される。この古墳群は、大宮町史と少し異なる部分もある。すなわち、大宮町史では遺跡番号が付してなく、地図上に前報後円墳が200m程ずれて存在している。 我々が確認した時点では、台地の縁辺にあり、しかも高さ1.5m、全長20m程の前方後方墳と確認した 後略、とある。
萩野谷氏は「2基の円墳で構成される古墳群で、 中略 過去に測量調査がされているが、古墳かどうかを含めて再検討の余地があるように思う」とされている。
画像はその1基と思われるが、佐藤氏と萩野谷氏とで見解の違いがあり、そのあたりは、周辺の宅地化された状況からうかがうことは困難なのかもしれない。
この台地の北東方向久慈川縁辺に「いずみちゃん」が出現した泉坂下遺跡があり、常陸大宮の注目地域でしょうね。
2020年4月25日土曜日
購入本 1 続 常陸の古墳群
最近珍しく3冊の本を購入した。 私は、読む本のほとんどを市の図書館か県立図書館の蔵書でまかなっている。 それで大体は満足しているが、今回取り上げる本は、当然手元に置くべき本なので購入した。 他の2冊は順次紹介したい
「続 常陸の古墳群」附編 茨城県かすみがうら市折越十日塚古墳・坂稲荷山古墳発掘調査報告
佐々木憲一・田中裕 編 六一書房
昨日届いたばかりなので、少し目を通しただけだが、前回の常陸の古墳群の続編ということで、意欲的な研究者が参加されて発刊の運びとなったとのこと。 前回のと今回のとで茨城県のほとんどの古墳が網羅され、所謂古墳辞典的な使い方もできそうだ。 もし次回の続々が出るのであれば、ぜひ北茨城市、高萩市、常陸太田市の古墳も取り上げていただきたい。 古墳時代の太平洋海上交通を考察するうえで、北茨城市、高萩市の古墳は重要だと思っているから。
「続 常陸の古墳群」附編 茨城県かすみがうら市折越十日塚古墳・坂稲荷山古墳発掘調査報告
佐々木憲一・田中裕 編 六一書房
昨日届いたばかりなので、少し目を通しただけだが、前回の常陸の古墳群の続編ということで、意欲的な研究者が参加されて発刊の運びとなったとのこと。 前回のと今回のとで茨城県のほとんどの古墳が網羅され、所謂古墳辞典的な使い方もできそうだ。 もし次回の続々が出るのであれば、ぜひ北茨城市、高萩市、常陸太田市の古墳も取り上げていただきたい。 古墳時代の太平洋海上交通を考察するうえで、北茨城市、高萩市の古墳は重要だと思っているから。
2020年4月24日金曜日
ウィルスがもたらす不安なかで
久慈川右岸の古墳群の私的な調査は4月10日で終わっていたが、全国的な緊急事態になり、記録の投稿を躊躇していた。 中国から拡散したコロナウィルスが全世界に影響を及ぼし、人々を不幸に陥れている状況で、時にマスコミやインターネット上の有名無名の人々のコメント類の無秩序な内容は、なんだかバベルの塔に閉じ込められているかのようで、同じ日本語での会話が無意味に聞こえてくる。 そこで個人的な考えだが、いつもの当たり前の日常が人々の冷静さを保てる一つの手段なのかもしれないと思い、あえて、素人の古墳観察記録だが投稿していきたいと思う。
2020年4月17日金曜日
ささやかな事
昨年の3月、娘が居住するモントリオールに10日ほど滞在した。その折、カナダ人なら知らない人はいないらしい、コーヒーとドーナツがメインメニューのチェーン店を展開するティムホートンズ(Tim Hortons)で何度かコーヒーを飲んだ。 このお店は毎年の春先、Roll up the Rim to Winと言うキャンペーンを行っていて、この時はアメリカ製のジープが当たるというキャンペーンだった。
コーヒーが入っている紙コップの口の部分の丸まっているところをめくって、当たり外れが分かる仕組みで、画像は当たり外れが分かる部分をだけを、コップから切りとったもので、もう一杯飲めるよという、スカよりはましな当たりくじ。 帰りの空港の待ち時間にでも飲もうかと当たりくじをポケットに入れていたが、どこにお店があるのか気が付かなくてそのままになってしまった。 こんなささやかな事が、今、できなくなってしまった。
コーヒーが入っている紙コップの口の部分の丸まっているところをめくって、当たり外れが分かる仕組みで、画像は当たり外れが分かる部分をだけを、コップから切りとったもので、もう一杯飲めるよという、スカよりはましな当たりくじ。 帰りの空港の待ち時間にでも飲もうかと当たりくじをポケットに入れていたが、どこにお店があるのか気が付かなくてそのままになってしまった。 こんなささやかな事が、今、できなくなってしまった。
2020年4月12日日曜日
久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市1 富士山古墳群3
この古墳群中いちばん高所にある「5号墳」。広報誌のデータは径30m、高さ3mの円墳。 現在は雑木林の中にある古墳だが、東側の見通しが利く地点からは対岸がよく見える。
この古墳群は、調査後削平されてしまった「富士山4号墳」を嚆矢として各時代が追える古墳がそろっていた可能性があるのではと思う。
位置情報 N36°31′17.7″ E140°26′08.7″
久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市1 富士山古墳群2
五所皇神社裏古墳から東南方向の畑の中にある「丸山古墳」。広報誌データによると、径30m、高さ6mとなっている。円形に見えるが裾部は削り取られている。過去に地主の許可を得て埴輪の有無を調査したとき見つけられなかったが、どうやら埴輪があるらしい。5世紀以降の築造か?
この古墳群は久慈川とその支流の玉川とに挟まれた地点で、常陸太田市大方地区の久慈川支流浅川と山田川とに挟まれた地点の地形と似ていると思う。
この古墳群は久慈川とその支流の玉川とに挟まれた地点で、常陸太田市大方地区の久慈川支流浅川と山田川とに挟まれた地点の地形と似ていると思う。
久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市1 富士山古墳群1
常陸大宮市下村田の台地先端部に築かれた富士山古墳群中の「五所皇神社裏古墳」。 ネットでも見ることができる、広報常陸大宮 令和元年6月号にこの古墳群についての記事が載っているが、それによると、元は12基の古墳群だったが、宅地造成のため、1,2,4号墳を調査。現在は、5号墳、丸山古墳との3基が残っているとなっている。古墳頂部からは下大賀方面がよく見える。
常陸太田市中野町にある中野冨士山古墳と墳形が似ているとの指摘がある。
4月26日追記
先日手元に届いた「続 常陸の古墳群」を読み始めたが、萩野谷 悟氏が担当した「常陸大宮市域の古墳群」に新知見が載っていた。2019年12月15日、常陸大宮市教育委員会の調査により、当古墳群で新たに6基の古墳が発見され、前方後円墳3基、前方後方墳1基、方墳2基、円墳10基、不明2基と総基数18基の古墳群となったとのこと。 驚き‼ 中国コロナが収束したらぜひ見に行きたい。
2020年4月11日土曜日
久慈川右岸の古墳群 那珂市21 十林寺古墳群
那珂市下大賀 旧瓜連町にある「十林寺古墳群」。画像上段の残存墳丘で間違いないと思うのですが。 2018年6月に、国道118号線4車線化工事に伴う茨城県教育財団の発掘調査で、半円形の古墳の存在が明らかになりましたが、これも、十林寺古墳群の範囲になる可能性が指摘されているようです。これらの古墳群の位置は玉川右岸でもあり久慈川右岸でもあります。
2020年4月10日金曜日
しだれ桜と中野冨士山古墳
こんな時期に不謹慎なのだろうが、こんな時期に古墳巡りをする私のようなアホな輩もいないだろうから、そんな所で他人に出くわすこともあるまいと高を括って出かけてみた。
ひさしぶりの「中野冨士山古墳」。 地元の人達と植えたしだれ桜はほぼ終わり、山桜は満開でちらほらと散りはじめていた。でも、古墳の入り口にはきれいな花々が咲き誇っていた。
2020年4月5日日曜日
高萩市 上台古墳群
以前にも取り上げたが、高萩市石滝 旧髙萩工業高校の西方端の墓地にある「上台古墳群」のうちの1基。学校敷地内の体育館そばにも1基あるらしいが、昔のように簡単には校内に立ち入れないので見ていない。この地点から東南方向1kmほどのところにある古墳群も「上台古墳群」となっている。この付近は行政区の境目で、日立市側は「藻島台古墳群」と呼称している。
さて、今からは私の妄想をひとつ。 数十年前、高萩市側には石滝団地、旧十王町側にはいぶき台団地という住宅団地が大々的に造成され、かろうじて残ることができた古墳群が上台古墳群であり藻島台古墳群、長久保古墳ではなかろうかなと思う。 これらの団地群の中心部の遺跡として調査されているのは3か所ほど。これだけ広い台地で日当たり良し、安全な居住区として最適な場所に遺跡が少数とは考えられない。 佐藤正則氏の論考に日立市郷土博物館紀要第3号の「久慈川下流左岸の古墳群形成」で狐塚古墳として「この大甕工場敷地内には、無数の古墳が点在していたが、昭和三十年代から姿を消し、工場が建ち並んだ。私たちの幼いころ、この辺を歩くと、右、左、前後と、いたるところに古墳があったのが今でも記憶にのこっている」とある。
これを、工場から住宅団地へと入れ替えれば合点がいくのではないかと思うが、 いかがだろうか?
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