私の知人二人が執筆に参加している「歴史研究 特集 佐竹と常陸太田城」です。
この中で、イガレンジャー氏の文章の中に気になるものがあった。
「太田勝景誌という明治三十四年(一九〇一)に出版された書籍には、かつては、鯉沼という沼が城の東にあった。天然の水堀や灌漑の役割を果たしていたものと思われる。また、中世の伝承として岡田(常陸太田市岡田町)近くまで、海が入っていた(入海)とされる。太田城が海に接していた可能性がある。太田城は街道の要衝と水運を抑える拠点城郭だったのである。」
この岡田町やその西側に当たる地域の小沢町、磯部町、谷河原町、藤田町、そして梵天山古墳がある島町などは水田地帯が多く、海抜も似たよう高さになっている。
国土地理院の治水地形分類図を参考にすれば、久慈川とその支流も時代によっては流れを変えてきている歴史があり、島町付近の高台に上れば、久慈川の河口部が望める地点でもある。太田城まで海が迫っていたとすれば、中世においても梵天山古墳の付近まで海が迫っていた可能性も見えてくる。
ほんとかな?

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