画像は、2012年2月12日に発見時の中野冨士山古墳と「婆良岐考古 第35号」です。
以下がその下書きです。
星神社古墳の埴輪採集及び中野冨士山古墳の発見の経緯について
星神社古墳の埴輪採集
2011年3月11日、未曽有の大地震が列島を襲い、東日本を中心に甚大なる被害をもたらし永遠に記憶される日となった。そして、いまだ安寧な日々を取り戻せない人々がいる。
その日から半月ほどたった3月27日に余震があり道路が一部寸断している状況だったが、以前から定期的に踏査を行っていた常陸太田市及び東海村所在の古墳の状況を確認するため、ガソリンの残量を気にしつつ赴いた。各古墳の墳丘には被害はなかったが墳丘に樹立されている石造物、建造物はことごとく転倒、倒壊していた。星神社古墳も例外ではなく、前方部にある鴨志田家歴代の墓石が転倒、後円部にのる星宮の社殿は北側に向かって倒壊していた。5ケ月後の8月11日社殿が取り壊され、瓦礫は周囲に積み重ねられている状態になっていた。土が一部動いたため埴輪が数点露呈しており採集した。そのおり、顔なじみになっていた地元の方から「近日中社殿再建に向け星神社古墳に重機が入り、基礎のコンクリートの撤去作業が行われる」との情報を得た。8月28日は考古学協会総会の日だったが、その前に状況を確認するため星神社古墳に立ち寄ってみると、くびれ部から後円部にかけて重機が上がった轍があり、コンクリートが撤去され整地もされて、そして砂がまかれて注連縄が張られ地鎮祭完了の状態を示していた。ならされた表土は周囲に盛り上げられ埴輪が点在していた。この事態は直ちに常陸太田市教育委員会の耳に入ることとなり、担当職員と氏子代表との話し合いがもたれたらしく、その後社殿再建への動きは中断した。私は、今後墳丘上にある瓦礫撤去に伴い、よせられた表土もろとも埴輪も廃棄れるのではとの危惧をいだき、関東でも希少な存在の埴輪を後世に残したいとの思い出埴輪採集に勤めることとした。これは翌年までほぼ毎週の行動となった。その後寒くなってきた12月18日、後円部にコンクリートの基礎ができていて社殿再建への動きが再開されていることを確認した。2012年2月5日、社殿が完成し瓦礫も撤去され重機の痕跡も修復されていた。2月26日、以前の社殿に使われていた「星宮神社」の額が掲げられているのを確認、現在に至っている。
中野冨士山古墳の発見
ことの発端は2010年までさかのぼる。この年の2月、茨城大学を会場にして東北・関東前方後円墳研究会のシンポジウムが開催された。会場では8ケ月ぶりに井 博幸先生にお会いし、その場で「土筆10号」や「金砂郷村史」で語られている金郷小学校(現金砂郷小学校)保管の埴輪(外面赤塗り発色は強く、器台形埴輪の可能性がある)を持つ古墳を探してみませんかとの打診を受けた。私の能力外のことだと思ったが「期待しないで下さい」の言葉で受諾の意思をお伝えした。今まで茨城県内外の古墳を踏査してきた事に加え、それからは、金砂郷小学校を基点に主に山田川流域の探査の意味合いも加味された踏査が加わった。2012年、視点を浅川流域に移して活動しようと思い、久慈川との合流点に近い中野町にある丘陵から始めることにした。常陸国風土記に記されている「古老いへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、鯨鯢に似たり」に比定されている地点である。2月12日、その南端の東よりに小さな鳥居がありそこから丘陵に登り始めた。遺跡地図に載る「東山古墳群」を観察する目的もあった。密生する藪をかきわけて最高地点あたりに来ると、前方に径30~40mの円墳状のマウンドが見えてきた。これが東山古墳なのかと思いながら北側に回り込むと、前方部が見えてきたので驚いた。墳丘に上がってみると間違いなく前方後円墳であった。その日はそのまま帰宅し自宅にある資料で確認してみた。翌週は、横浜で開催されたシンポジウムに参加したので踏査できず、その翌週の26日、再度中野町を訪問し古墳を歩測主軸も確認した。その後、常陸太田市西二丁目にある郷土資料館梅津会館を訪れ、知られていない古墳であることを確認した。3月2日、井先生へメールにて状況をお知らせした。3月28日、27日に井先生が来県され古墳を確認したとのメールを受け取った。 以上が井先生の進言から古墳発見までの経緯であるが、初願の古墳へは現在の所まだたどり着いていない。
0 件のコメント:
コメントを投稿