ちょっと分かりにくい場所にあります。その理由は、入り口の解説板に書いてありました。
入り口の門の内側の梁には家紋が刻まれていました。
また余談ですが、常陸太田市小島町所在の鴨志田家御本家のご次男、鴨志田昌夫氏が遺した著書「古文書を聴く」の中に、殉難志士に関係する記事が載っています。 長くなりますが一部要約して、掲載させていただきます。
第五章 水戸藩の郷士と鴨志田又左衛門家
兵学・松田流新流指南であった鴨志田又左衛門直升は万延二年(1861)二月二十二日に七十四歳で亡くなっている。(注16 万延元号は二月十八日までで、二月十九日には文久に改元されている。したがって、万延二年二月二十二日は存在しない。改元直後のことでこうした誤りが生じたのであろう。)その後、総領であった水之介が家督を継ぎ、同時に名前も又左衛門直準と改めた。
直升が亡くなる万延二年二月前後には、水戸藩はまさに未曽有の激動の時代を迎える。前年三月には水戸浪士による井伊大老殺害の桜田門外の変が起こり、三年後には水戸藩を二分する内乱であった元治甲子の乱が勃発している。(注17)そうした激動の中、明治維新を迎える。こうした時代に郷士・又左衛門直準がどのように生きていったかは、残念ながら史料が不十分で明らかにできない。
(注17)ちなみに、直準の長男本介直列は、元治甲子の乱に参加した。そして、那珂湊で幕府側に降伏し、武蔵川越から江戸佃島へ移され、慶応二年八月二十六日に二十一歳(十九歳とも。「幕末維新全殉難者名簿 一」新人物往来社 四百二十七頁)で獄死している。
以上。 合掌
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