2010年11月28日日曜日

方のクニ、那須へ 6




那珂川町小川にある「駒形大塚古墳」。前方部の大半が削られているが、主軸東西、全長60.5mの前方後方墳。昭和49年に調査が行われて、鏡をはじめ豊富な副葬品が出土している。この地域内に築かれた前期前方後方墳の築造順は、駒形大塚古墳→吉田温泉神社古墳→那須八幡古墳の順だとされている。

方のクニ、那須へ 5




温泉神社古墳の南側にある、「観音堂古墳」。一辺約30mの方墳。墳丘の東側が崖になっているため一部崩落している。

「温泉神社2号墳」と思われるマウンド。明細不明、一辺5mの方墳とされている。この周囲には墳丘が削平されているが方墳が20数基あり、まさしく方の世界と言えるのではないかと思う。

方のクニ、那須へ 4



「吉田温泉神社古墳」。後方部が削平されてしまっている。昭和48年、50年、平成6年に、墳形確認の調査が行われ、全長47mの前方後方墳と確認された。主軸南北。後方部北西部で祭祀行為と推定できる遺構がみつかっている。

方のクニ、那須へ 3



那須八幡塚古墳に隣接してある、吉野工業内に「吉田富士山古墳」があります。
気が弱い私は、正面の看板を見て中に入れませんでした。突き当たりに古墳があります。
東西25m×南北20mの方墳です。昭和45年に周堀部分の調査がおこなわれている。私のカメラは広角重視で選んだもので、これ以上ズームが出来ません。それとこの日の朝は寒く、レンズが少し曇ってしまいました。

2010年11月26日金曜日

やったね


下の娘が田中裕先生がいらっしゃる大学の院に合格いたしました。
途中からの方向転換だったので心配していたのですが、周りの方々の応援も力になったようです。
おめでとう。チチもガンバルゾ。

2010年11月21日日曜日

方のクニ、那須へ 2



那珂川町吉田にある、前方後方墳の「那須八幡塚古墳」。主軸東西、全長60.5m。昭和28年に発掘調査されている。鏡や鉄剣、鋸などが出土。

方のクニ、那須へ 1


今日は早起きして、栃木県大田原市、那珂川町へ前方後方墳を観察に。その前にご挨拶。
午前5時54分の、星神社古墳。

2010年11月14日日曜日

上高津貝塚ふるさと歴史の広場



写真撮影禁止なため、残念ながらすごいお宝を見ていただくことができません。
「八幡脇遺跡と古墳時代の玉・鉄」。茨城町の南小割遺跡、ひたちなかの武田西塙遺跡、土浦の原田北遺跡など、茨城もなかなかなもんですよ。四世紀の鍛冶遺跡だそうで、いや~オジさんたまげました。

土浦の前期古墳




以前、前期古墳めぐりをしたとき、もらしてしまった古墳です。土浦市大字常名字天神久保2454-1
常名天神山古墳。常名は「ひたな」と読みます。前方後円墳、全長約90m。主軸約東西。
隣接して瓢箪塚古墳があったらしい。

2010年11月13日土曜日

今回のあれこれ


パキスタンの如来立像 、雰囲気が大分違いますね。

江田船山の鵜と魚たちはやさしい眼をしてます。

何事も、前向きに考えることが肝要です。

2010年11月8日月曜日

上野から御茶ノ水へ 3

午後はリバティホールでのシンポジウム。私が参加したのは、3日間行われたうちの5日の午後の部のみです。




国際学術研究会「交響する古代」
主催 明治大学大学院文学研究所 日本古代教育・研究センター
Session3 「東アジアにおける国家の形成と文字」
大塚初重(明治大学名誉教授)
    東アジアにおける国家の形成と文字ー日本における古墳時代の歴史的意味
朴 天秀(慶北大学校考古学人類学科)
       三国古墳時代における韓日交渉の変遷と歴史的な背景
王 巍(中国社会科学院)
      文字と文明
神野志 隆光(明治大学大学院)
    文字の受容と日本語
徐 建(中国社会学院)
    出土文字資料と古代史研究ー中日韓参三国の古代木簡を例として
吉村武彦(明治大学)
     列島の文明化と国家のしくみ
会場は撮影禁止のため休憩時間に撮った、朴先生と大塚先生です。大塚先生がさびしそうに見えますが、いえ、お元気でした。
大塚先生は、近年の発掘調査などをふまえて、定説あるいは定説となりつつあることがらの見直しを迫られる可能性も、具体的な遺跡名を一部あげて解説されていました。
朴先生は、以前NHKへの出演の中での発言や先生の著書「加耶と倭」にも書かれている、倭と新羅との交流を重視した内容でした。それと、「渡来人」との用語には違和感があり、「移住民」を使うべきではないかともおっしゃっていました。
王先生や徐先生の研究分野は、私にとっては不勉強な部分なのですが、甲骨文字以前の絵文字と言っていいのか、文字につながるかもしれないものが、紀元前8000年の年代を与えられているのに驚きました。
木簡は、中国でも多数出土しているようです。韓国の木簡研究は少し遅れている、北朝鮮は今のところ木簡の出土はないとのことでしたが、これから、この分野は調査が進めば大きな成果が出てくると思いました。

2010年11月7日日曜日

上野から御茶ノ水へ 2



11時ちょい前に御茶ノ水へ移動。明治大学博物館へ。「王の埴輪」-玉里舟塚古墳の埴輪群ーです。
撮影禁止なため画像はありません。図録の論考からは、今城塚古墳との関係がうかがえるとのことで、このようなつながりの考え方が出てくることこそが古代史の面白さだとおもいます。
現在の舟塚古墳の後円部には、大塚先生名文の碑が立って、いや、ちょっと寝ています。

今日の



今日の星神社古墳。最近「常総の歴史 38号」を見つけました。その中の塩谷修さんの「前方後円墳の波及と埴輪祭祀」-常陸北部久慈川中流域の梵天山古墳群をめぐってーは興味深いです。現在の状況の中での論考としては出色だろうと思います。その中からちょっと抜粋させていただきます。P.80の「想定した二古墳の築造時期が正しければ、両古墳は、古墳時代前記前半から中葉の極めて短期間に築造されている。築造時期が接近すること、前方後円墳に表れた儀礼の系譜の錯綜した状況などから、星神社古墳と梵天山古墳は、継続する二代の首長墳と考えるより、同世代に造営された性格の異なる大小二基の前方後円墳と考えたほうが理解し易いようにおもわれる。」東国の古墳の中で、巫女の存在が語られることは少ないと思う。栃木の桑57号墳のような巫女的性格をもった古墳が東国にもあるということは、塩谷さんの説をとれば、梵天山古墳は派遣将軍、星神社古墳は祭祀をつかさどった巫女の墓とも考えられるのかなと?。私の妄想まで。

2010年11月6日土曜日

上野から御茶ノ水へ 1






昨日は休みを取って高速バスで上野経由御茶ノ水へ。朝は少し寒かったけれども、天気がよく気持ちの良い一日でした。少し早くに国立博物館に着いてみると、もう並んでいる人が。「東大寺大仏ー天平の至宝ー」展を目当ての方々ばかり。私一人「古墳時代の甲冑」展へ。江田船山出土の国宝もありましたが、もう少し数があってもと思いました。