2020年5月31日日曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 常陸大宮市 富士山古墳群など

 画像は、那珂市の国道118号線4車線化工事が進行中の下大賀遺跡付近から、常陸大宮市「富士山古墳群」方向の眺めです。 黄色丸が「五所皇神社裏古墳」、オレンジ丸が昨年12月常陸大宮市教育委員会の調査で6基の古墳を発見した地点です。 これでこの古墳群は合計18基の古墳群となり、これまで以上に久慈川右岸の重要地点として再認識されることでしょう。 

そして、周知の事実として、この付近は久慈川と那珂川との間がいちばん狭まるところですが、当時の物流の主役と思しき河川と舟を介在した流通プラス、陸路を介在した久慈川と那珂川とをつなぐネットワークがあったのではないのかと考えている方が私が知る限り3名いらっしゃいます。 まず、某大学の考古学教授、そして大洗町のT氏、それから在野の中世城郭研究者のI氏。 I氏は時代が違いますが考えていることは同じで、城郭と古墳とは相性が良いので参考になると思います。

まず、考古学教授は私との立ち話程度の会話でしたが、流通路はまだ良く分からない調査中とのこと。 T氏は明確に県道61号線だと断言。 I氏は中世の流通路として那珂川の下江戸だろうねと言うことで、たぶんT氏と同じ61号線を流通路として考えているようです。下江戸付近には船渡の地名があります。                           
 
国土地理院の地図で久慈川から那珂川へ、あるいはその逆の、私もよく利用する県道61号線の陸路を示してみました。 途中、静神社の大鳥居前を通るこの行程は象徴的な道です。
相互の距離は約7.2kmほど。 この道筋は、久慈川からは瓜連の台地への上り坂があり、静神社の大鳥居をすぎてしばらく行くと那珂川まで続く下り坂で、この坂が逆の工程では結構な難所になりそうです。 問題はこの県道61号線が何時から流路として成立したかの調査検討が必要になりますが、どんなもんでしょうかね。 

2020年5月29日金曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 森戸遺跡のことなど



東北・関東前方後円墳研究会が発行している、シンポジウム発表要旨資料「古墳と豪族居館」を参考にさせていただきます。

過去の当ブログに、豪族居館とされる久慈川右岸にある森戸遺跡と左岸にある星神社古墳との関係性に否定的な記事を載せたことがありました。それは単に、一級河川である久慈川が両者を隔てていると解釈しただけの単純な根拠でしたが、「古墳と豪族居館」を拝読すると、喜多方市にある古屋敷遺跡と灰塚山古墳など河川を間に挟む事例があり、とても勉強になりました。 この森戸遺跡と星神社古墳との関係に最初に着目したのは新潟大学の橋本 博文教授だったのでしょうか。

この森戸遺跡は谷仲 俊雄氏がまとめた「茨城県の豪族居館」の編年によると、星神社古墳から中野冨士山古墳、高山塚古墳の時期まで営まれた居館となっていて、久慈古墳群との相性は抜群です。さらに、現在工事中の幸久橋付近には舟渡という地名が残っており、明治になって橋が架かるまで渡しが行われていたという地点でもあります。

視点を変えて、現在の私的目線でみた森戸遺跡周辺の事柄です。

常陸太田市藤田町は、隣接する天神林町、大里町、中野町などの丘陵に挟まれた田園地帯で、ここから真冬に北方向を見てみると、白い雪をかぶった那須方面の山々が見え、そこから冷たい風が吹いてきます。 それは、毎日と言っていいほど恒常的に、そして各丘陵があるおかげでビル風のように風速を増し、久慈川を超えて那珂台地に吹きあがっていくわけです。

画像は梵天山古墳がある島町から東南方向、森戸遺跡付近の那珂台地を見たものですが、川沿いに築かれた古墳も見えなければ住宅も見えません。それは、久慈川右岸の川沿いの大部分を防風林が視界を遮っているからで、そのおかげで那珂台地に居住されている方達は多少なりとも防風林の恩恵にあずかっていることになります。

古墳は他人に見せる機能も含まれているという解釈があります。 森戸遺跡からも久慈古墳群が見渡せなければなりません。 当時の人達は防風林のないさぞ寒い冬を過ごしたのでしょうか。

2020年5月24日日曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 那珂市

国土地理院の地図を拝借させていただいています。 

地図には那珂市の主な古墳と森戸遺跡の位置と、対岸の常陸太田市の久慈古墳群の位置とを赤点とグレーの丸とで表示してみました。 この付近の久慈川は蛇行して高低差もあまりなく、流れは緩やかで支流の浅川、山田川、里川等が合流するといった、多目的に河川が利用できる重要地点だったのだろうと思います。それは、久慈川左岸にある星神社古墳を筆頭に高山塚古墳まで他地域を凌駕する古墳が連続して築造されていることで証明されていると思います。では、右岸の状況は。

那珂市の古墳群については「那珂町史」に詳細に記述されているので、私は別な視点で書いてみたいと思います。といっても、もうすでに田中 裕氏が「続 常陸の古墳群」のなかの「総括に代えて」で大型円墳に着目されています。私も2011年、2012年頃だったか、径30m~40mクラスの円墳、富士山古墳群、おはぐろ塚古墳、稲荷様古墳、鈴照山塚古墳、愛宕山古墳など、古墳観察と埴輪採集を試みて付近の畑で須恵器片を拾ったことはありましたが埴輪は拾えませんでした。 それ以外に小型円墳が多いのも那珂市の古墳の特徴になると思います。全国で2番目に古墳の数が多いとされる茨城県は、後期築造の小型円墳が数を稼いでくれているおかげでしょう。

さて、この那珂台地にある径30m、40mクラスの円墳、あるいは20mクラスの円墳も含める必要があるのかもしれませんが、問題は大きさだけではなく森戸遺跡と古墳との関係性を考える必要があると思います。今のところ同時期として候補に挙がるのはひょうたん塚古墳群中の前方後円墳が候補に挙がっていますが、その後の古墳が不明と言わざる負えません。付近に後続する前方後円墳がない以上そこにある円墳群に答えを求めるほかないのではないでしょうか。もっとも、多数の視線は那珂台地の古墳ではなく、対岸の久慈古墳群との関係性を重要視しているようですが、そのあたりは次回で私の珍説を。 

平穏な星神社古墳

沈静化のきざしが見えてきたと言っていいのか、釈然としない心持でいる今日この頃。

発言したいことは山ほどありますが、ここは平和な星神社古墳。 田植えも終わり、取り巻く人間模様は変化が見られますが、相変わらずの癒しの場です。

2020年5月19日火曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 東海村

画像はスタンフォード大学が公開している、明治から昭和にかけて作成された地図を拝借しています。

これからの文章については、続 常陸の古墳群、各市町村史、茨城県遺跡地図、佐藤政則氏、高根信和氏等の文章等を参考にさせていただきますが、これは論文ではなくあくまで素人の雑文ですので、いちいち出所を明示いたしませんのでご理解いただきたい。

地図には、東海村の久慈川沿いにある古墳と対岸の日立市の一部の古墳をそれぞれ点で示してみました。
古い地図を使うのに意味があるのかは何とも言えませんが、久慈川に限らず全国の河川が何らかの改修工事をされているのだろうと思いますけれども、久慈川は江戸時代に辰ノ口堰を造った永田茂衛門が有名ですが、私が20代の頃には河口部の改修工事が行われて現在のようになっています。まあ、その違いが分かるだけでも古い地図を使う意味があるのかもしれません。

東海村の古墳群については丁度良いタイミングで「続 常陸の古墳群」が刊行され、林 恵子氏により「東海村域の古墳群」に丁寧にまとめられているので、そちらを参照していただければと思います。

今回久慈川沿いの古墳群にこだわってということで、東海村の盟主的古墳である権現山古墳と真崎5号墳とを取り上げていませんが、別に忘れているわけではありません。

地図では、河口部から白方古墳群、調査消滅した愛宕山古墳、座応権現山古墳、別当山古墳、中道前古墳群、石神外宿古墳群とを黄緑の点で示してみました。各古墳の築造時期は愛宕山古墳と別当山古墳が5世紀ごろ、あとは大体6世紀代の古墳となっているようです。 例外はあれども河口部に前期古墳は無いというところでしょうか。

目を移して、対岸の日立市の古墳を見てみると、赤点は舟戸山古墳と桜山古墳とを示しています。
こちらも、「続 常陸の古墳群」に生田目 和利氏による「日立市域の古墳群と横穴墓群」にこれまた丁寧にまとめられています。(生田目氏に感謝!) 
この両古墳については、片平 雅俊氏が茨城県考古学教会誌第29号の「久慈浜周辺の古墳を考えたい」で詳述されており、それぞれの築造時期は船戸山古墳が5世紀代、桜山古墳が5世紀初頭となっています。

そして最近、佐藤 政則氏が過去に携わった調査資料、写真等をまとめた報告書を自費出版され、そこに、青色の点で示した「上の台古墳」出土の坩形土器の写真があり、小さな円墳ですが前期になる可能性があるのかなと思っていますが、さて?

                        以下次回

2020年5月16日土曜日

購入本 3 土と日本古代文化

「土と日本古代文化」
日本文化のルーツを求めてー文化土壌学試論

        藤原彰夫著       博友社    平成3年3月発行

黒ボク土(黒土)のことを調べていてこの本の存在を知り、ネットオークションより購入。

筆者は、土壌研究者として長らく社会貢献をされてきて大学を退官後、以前より興味があった考古学に本職だった土壌学を取り入れた研究をされて、80歳を過ぎて出版にこぎつけた執念の一書。

中国各地の土壌分析から、農耕の起源やその広まり方を分析したり、北部九州より稲作が伝播していったルートは、土壌も密接に関係しているといった考古学からも興味深い内容がある反面、文献史学的な、考古学からの証明は困難だと思われるものも含む多彩な内容です。
筆者の趣味の領域とはいえ、この多彩な研究内容はなかなかできるものではないと思いました。

2020年5月15日金曜日

ゆるぎない歴史


中国から拡散したコロナウィルスによって世界中が混乱していることは、ゆるぎない歴史的事実として永遠に語り継がれていくことでしょう。

2011年の大震災も、後世に語り継いでいくべき歴史的事実でしょう。

そして、それらに負けないで今年も田植えの季節が来ましたが、星神社古墳の鳥居側はまだなようです。

ここにこうして古墳があるのも、ゆるぎない歴史的事実でしょう。

2020年5月8日金曜日

購入本 2 日本キリシタン教会史

「オルファネール 日本キリシタン教会史 1602-1620」  

    井出勝美訳  ホセ・デルガド・ガルシア註   雄松堂書店  昭和52年3月発行

この本にたどり着くには前段があって、まず、ルシオ・デ・ソウザ氏と岡 美穂子氏との共著「大航海時代の日本人奴隷」を読んで、そこから、ノンフィクション作家 星野 博美氏の「みんな彗星を見ていた」を読んでこの本の存在を知ったと言う、いつもながらの私の読書方法。 この本、市の図書館にも県立図書館にも無く、ネットで探った古書店にも無く、結局ネットオークションにあり競る相手がいるわけもなく難なくゲット。


内容としては、1578年スペインに生まれたパードレ・フライ・ ヤシント・オルファネールは1600年に聖ドミニコ会に入会し、1607年に布教活動のため来日。 1622年火あぶりの刑で殉教、神のもとへと旅立ったわけですが、彼は布教活動の傍ら見聞した殉教者の状況を克明に記録し、大阪夏の陣と言う日本の歴史的な転換期の状況をも記述してくれています。 あとになってから歴史家が記述する事柄などとは違い、これはあくまでも当事者としての報告書であり、フィリッピン経由でバチカンに届き今こうして読むことができるのですが、遠い昔の話などと言ってはいられない、たいして変わっていない今の世界の状況に思えてしまう。  星野氏によれば、福者となったオルファネールに、今も故郷の人達が教会でミサを捧げているとのこと。 合掌

2020年5月3日日曜日

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市6 岩崎古墳群3

この岩崎古墳群について茨城県遺跡地図では6基と表記されている。 大宮町史の測量図には4基の古墳が示されているが、画像の円墳とおもわれる地点は表記されていないようだ。
参考のために位置情報を示す。N36°36′00,7″ E140°25′01,2″

これで、久慈川右岸の古墳群を概観する試みを終了したいと思う。 一本の河川の両岸の状況はどんなもんかなと、気楽な思いで試みたがなかなか面白かった。 部分的には対岸と相似的であり、地形に影響されてそうでもない地点もあり、これらについては、素人目線でのまとめを発表したいと思っている。

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市6 岩崎古墳群2



民家の庭先のある円墳と思われる古墳。石材が露出している。

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市6 岩崎古墳群1




常陸大宮市岩崎にある「岩崎古墳群」。  辰ノ口と言う治水施設の近くにある古墳群で、久慈川流域では川が最も屈曲している地点でもある。 もとの河川敷と思われるあたりは水田となっていて、その西側の微高地に古墳群が展開している。 画像下段は最も北側に位置している円墳と思われる古墳で、民家の敷地にある。

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市5 鷹巣古墳群


常陸大宮市鷹巣にある「鷹巣古墳群」。 4基の円墳からなる古墳群で2基は漂滅となっている。 画像は、国道118号線沿いの民家の庭先にあったマウンドだが、これなのかは心もとない。

2020年5月2日土曜日

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市4 小祝糖塚古墳群


常陸大宮市小祝にある「小祝糖塚古墳群」。 萩野谷氏によれば、元はこの古墳と円墳10基からなる古墳群であったが、現在確認できる円墳は3基で、詳細不明。この糖塚古墳は前方後円墳とされているが、円墳ではないかとの意見もある。

2020年5月1日金曜日

久慈川右岸の古墳群 常陸大宮市3 松吟寺古墳群



常陸大宮市下町にある「松吟寺古墳群」。この地は、中世城郭の部垂城跡内にある古墳群。
松吟寺と甲神社内に展開する古墳群となっているが、1基しか確認できなかった。