2011年10月30日日曜日

いや、おどろいた

日本自転車競技連盟のホームページを見ていたら、ロンドンオリンピックのロードレースに別府選手が内定との画像に昔の知り合いがあの中野さんといっしょに写っていました。その昔、彼もアマチュアとしてフランスやオーストラリア、アメリカなどのレースで活躍したのでした。彼がいたから今があると思います。その名は「高橋松吉」。

今日の星神社古墳



後円部はあの日の状態からの変化はないようです。珍しく軽トラックがとまっていると思ったら、くびれ部にある墓石の修復のためだそうです。

2011年10月29日土曜日

最近読んだ本

「豪族のくらし」  田中広明著  すいれん舎
「古代朝鮮墳墓にみる国家形成」  吉井秀夫著 京都大学出版会
「三角縁神獣鏡研究辞典」  下垣仁志著  吉川弘文館
「他界へ翔る船」黄泉の国の考古学 辰巳和弘著  新泉社
「研究最前線 邪馬台国」 いま、何が、どこまで言えるのか
石野博信、高島忠平、西谷正、吉村武彦編 朝日新聞出版
「列島の考古学  弥生時代」 武末純一、森岡秀人、設楽博己 河出書房新社
「古代国家と軍隊」皇軍と私兵の系譜  笹山晴生著 中公新書

私が考古学モドキをはじめたきっかけのひとつに、北部九州の弥生時代関連の本を読んだことにあります。登呂遺跡を代表とする牧歌的水田稲作の弥生像しか知らなかった私にとってはとても刺激的で、その後に続く古墳時代に興味を持ったのでした。「列島の考古学 弥生時代」はカラー写真が多く一般の方むけのようで、なかなか。あとがきにあるように、「弥生時代に関するすべてのテーマを網羅したり全体を時間軸に沿って記述したりはせず、それぞれが重要と考えたテーマや冒険的なテーマを選んで個人の意見を突出させ、その他のテーマは思い切って省略することで意見が一致した。」がバックボーンになっています。相変わらず東日本の記述は少ないですが、常陸大宮の「顔」が表紙にあるのは進化なのでしょうか。 私は万葉集の勉強をしていません。笹山さんの著書の中の「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを」 大舎人部千文の歌は近世だけでの物事の
解釈は誤りを生むこともありえるのかなと、事々考えさせられました。これからいよいよ「古墳時代の考古学」拝読します。

みたくない

9月27日帰宅すると、モントリオールにいるミーさんが怪我をしたと知らされた。なんでも、自転車に乗っていて提げていたバックが前輪にからんだらしく、顔面から落ちたそうでメガネが割れそれ相当の怪我をしたらしい。背すじがゾクゾクした。娘の血だらけの顔はみたくない。先週とどいた画像。

2011年10月22日土曜日

刺激

辰巳和弘さんの著書を読む合間に北条芳隆さんのブログを拝見すると、やっと同成社から出版されたとか、保立さんのとのからみがあるとか、結構刺激的な内容をさらりと書いているところが北条さんらしいなと、辰巳さんの著書の内容も結構刺激的です。画像は刺激的でない数年前に行った森将軍塚古墳での一枚。アホそうな親父が写っていました。

2011年10月16日日曜日

星神社古墳の現況





今日の天気は、朝まで雨が残り気温が高めで昼頃からは暑く感じる陽気でした。
1959年刊行の「茨城県古墳総覧」には、「通し番号721・星神社古墳・久慈郡金砂郷村小島字本郷、前方後円墳、周湟、埴輪有り、全長90m、後円部径44.5m、高8.5m、前方部幅18m、高2m、周湟は後円部半分だけめぐっている様子である。墳頂に星神社あり。」の記録があり。2003年3月から4月にかけて茨城大学による測量調査が行われ、古墳のデータは御覧の通りです。その他として、葺石、段築なし、墳丘は全て盛り土と考えているとのこと。2008年、田中新史さん、白井久美子さんたちが「土筆10号」において、この古墳採集の特殊器台形埴輪等からの論考が発表され、茨城の前期古墳を考える上でのひとつの指針になったのではと思っています。

2011年10月10日月曜日

絶望

人間には絶望があるから人間であるとの説があるらしい。ムスコには絶望がないんだろうな。
朝起きると餌をねだり、満足すると外に出してくれと騒ぎ、近所の迷惑になるから出すものを出してからにしろと言っても毎朝の儀式になっている。外で散々遊んで、夕方、時に夜になって帰ってきて家にあがるなり餌をくれと騒ぎ、静かになったなと思えばこの通りの寝姿。オレもお前のようになりたいよ。

2011年10月9日日曜日

栃木県の古墳 木幡神社古墳





栃木県矢板市木幡にある「木幡神社古墳」。昭和56年発行の「矢板市史」には土とり作業時の試掘調査で、少し掘ると地山が出てきたため古墳との認識に懐疑的だったとの記述があります。その後のデータでは、北西に向いている全長約52mの前方後円墳となっています。私には、馬の背状の独立丘陵にのる前方後方墳に見えました。なかなか興味深い立地だと思います。

栃木県 お旗塚古墳




栃木県さくら市狭間田字中根にある「お旗塚古墳」。円墳であるとか方墳だとか、明確にはなっていないようです。円形と方形の2重の濠がめぐる特異な古墳の評価になっています。周囲に沢山の牛舎がありいい香りがしていました。

栃木県 四斗蒔遺跡と

栃木県さくら市狭間田字四斗蒔にある古墳時代前期の豪族居館と目される「四斗蒔遺跡」。
遺跡の表示がないのでウロウロと探してしまいました。ちょうど農作業をされていた女性にお聞きすると、その昔、発掘調査に参加されていたそうで、あの辺りですよと教えていただきました。多分間違いないと思います。右手の奥に見えるイチョウの木があるところが「お旗塚古墳」になります。

2011年10月2日日曜日

ご苦労さまです



100kmほど離れているのに目に見えないものに翻弄されるのは残念です。若い人達はともかく、私はこの歳ですから気にしていません。地元のものを食べ、飲み、呼吸しています。今年も常陸太田の米は出来がいいですよ。

気分転換のつもりで



日頃、せまい世界で生活しているのでたまには刺激が必要になります。それで昨日は明治大学へ。
橋本輝彦さんは、以前NHKの特番のなかで邪馬台国を掘っているとの描かれ方になっていましたが、今回意識していたのか、纏向遺跡=邪馬台国の発言は一言も無く、最近の調査ではJRの線路際にも大型建物の柱跡が出てきてるとのことでした。刈谷俊介さんは、縄文時代には舟による瀬戸内海物資流通が成立しているとのイントロから、呉と狗奴国、魏と邪馬台国とのつながりなどダイナミックな内容でした。大塚先生はいつものように慎重な発言で、今回も出るなと思っていたらやはり、ホケノ山古墳から出た小形丸底土器の話が出ました。たしか、従来新しいと思われていた鏃も出ていたはず。吉村武彦さんの話の中に、清家章さんと土生田純之さんの名前が出てきたのが印象に残りました。往復のバスの中では都出さんの著書を拝読いたしました。