2013年12月30日月曜日

レ レ レッ


今年は、星神社古墳と中野冨士山古墳でのレレレのおじさんで終了です。事があっても無くても月日は過ぎて行きますが、私にとって今年は良い年だったんだろうと思う。それは、井先生はじめ常陸太田市の皆様、新たに面識を得た方々のお力を頂いたおかげです。ありがとうございました。 来年もまたよろしくお願い致します。

2013年12月23日月曜日

常陸大宮の古墳

久慈川流域の前期前方後方墳は、今のところこの一基しかありません。この測量図に不備がないのなら、あらためて、奈良の天理市にある古墳をも考える必要があるんでしょうね。

make up Ⅱ

わが町のシンボルの外装工事が行われています。震災の影響があったのかも知れません。

2013年12月22日日曜日

常陸国久慈郡嶋村全図


最近、「常陸国久慈郡嶋村全図」という資料の存在を知りました。作成されたのは弘化2年(1845年)となっているようで、梵天山古墳がのる丘陵全体図や高山塚古墳、富士山塚古墳などの図があります。墳丘上には松の木が描かれており、現在のような杉の木は無いようです。中野冨士山古墳測量時、地元の長老数名にいろいろと話を伺いましたが、先の大戦まで各丘陵には松の大木があったそうです。今とは大分景観が違っていたものと思います。そして、地元の方はすでにご承知なのでしょうが、郡戸小学校東側に展開する水田地帯の一部の田んぼに、白鳥が集まっているところがあります。餌場なのだと思いますが、近づいても逃げませんでした。これも、旧金砂郷町の名所なのでは。

2013年12月21日土曜日

星神社古墳の落ち葉

熊手と竹箒持参で、星神社古墳前方部の落ち葉を、ほんの一部だが取り除いた。珍しく女房どのも暇だからと手伝ってくれたが、すくに飽きてしまったようだ。そう、好きだからやっていられるんだよ。

2013年12月14日土曜日

常陸大宮市 小祝糠塚古墳

五所皇神社裏古墳から久慈川の8kmほど上流地点にある「小祝糠塚古墳」。全長68m、後円部径48mなどの数値が示されているが、前方部がほとんど削平されている状況での復元墳丘長は90mではとの指摘がある。古墳の北側にある小学校地点が梶巾遺跡となっている。今日も埴輪は拾えなかった。

2013年12月9日月曜日

久慈川中流域右岸




久慈川右岸の常陸大宮と那珂台地の畑の土は、よく手入れされたふかふかの黒土で、弥生時代由来の畑作の適地であったのだろうと想像する。各古墳を巡ってみたが、墳丘に石材がある古墳が2基あった。これが、この古墳に伴うものなのかは不明。埴輪はいずれの古墳でも確認できなかった。上段の画像の前方後円墳は吟味する必要があると思う。

2013年12月2日月曜日

再び大洗町 日下ヶ塚古墳


大洗町の日下ヶ塚古墳が、2011年の大震災により墳丘にダメージをうけ、今、その保護のためのトレンチ調査を行ってるところですが、調査の性格上トレンチを深く掘れないのはやむを得ないところです。今日は、東京学芸大学の日高先生と熱心な学生3名が見学に来られた。蓼沼さん縄文を忘れたかのように、古墳屋になっていた。よしよし、お疲れ様でした。

2013年12月1日日曜日

古墳碑

大正十一年の三月小島嶋粟原の水田へ
用水子為中野なる浅川副堰□□て第三
回の工事を起せる際松栄の道場を□す
る地を買い受け其土を崩したり而るに其
塚は上古□貴人の墳墓なる事を発掘せ
る刀剣は子知られたり故は□□工事の関
係せる人相謀り殷勲供養を営み又碑
を立て請ふ其の霊□を永久に□へむとて余子
文を請ふ因て其大略を記可事斯の如し


大正十四年三月     栗田 勤

ズームが付いたカメラを持っていないので、双眼鏡を持参し文字を追ってきた。難しい漢字は読めないし、判読困難な文字もあったり間違いもあると思いますが、だいたい意味は分かると思います。石室の状態や他の副葬品の状況がもう少し記載されていれば。