2022年1月28日金曜日

忘却の彼方?


 我が家には書庫が無いので、小さな本棚からはみ出た書籍はツンドクになります。

そのため、しばらくすると年齢的な衰えのためなのか、何時購入したのかを始め内容も、忘却の彼方はちょっとオーバーですが、記憶が薄れるということになります。

これらの図録なども、え~、こんなのあったんだぁ~ となります。

しかし、良い点としては、また新たな気持ちで読み進めることができるのです?

2022年1月23日日曜日

常陸太田市 道場塚古墳について






 常陸太田市松栄町の浅川のほとりにある「道場塚古墳」。 墳丘の一部が残存する古墳ですが、しばらくぶりに見に行くと、木々や竹が伸びて、墳丘や石室の石材が見にくくなっていました。(上段画像と2段目画像) 2012年当時、85歳は超えているだろうと思われた道場塚古墳の地主であるKさんに、古墳についてのことがらをお聞きしたことがありました。

それは、子供のころ浅川が氾濫した時、青年団がやってきて古墳の土と石棺を堤防が決壊した地点に投げ入れた。その時古墳から出土した香炉?を誰かが持ち去った。そして、刀や鏃も出た と言うものでした。

その他、この古墳にまつわるものとして、浅川副堰揚水機場に古墳碑(4段目画像)があります。 それによると、大正11年3月、水田への用水堰工事のため、有償で古墳の土を利用したとあります。 これらを纏めると、数度の土取りのため変形した未盗掘の可能性が高い古墳で、石室と石棺があり埴輪もある後期古墳となるのでしょう。

そして本題です。下段画像は国土地理院の陰影起伏図を借用してます。 赤丸が道場塚古墳地点です。 前方後円墳の形が残っているように見えます。 3段目画像は後円部方面から見た前方部だったかもしれない地点の画像です。

この陰影起伏図が、道場塚古墳の元の形を反映していると仮定した場合、古墳の主軸はだいたい東西指向で。 国土地理院のツール、計測機能を使って古墳の全長を計ってみると、約90mとなりました。

これはあくまで仮定ですが、以上のデータを採用してこの古墳を考察してみると、全長約90mの前方後円墳は後期古墳としては常陸国最上位クラスで、浅川のほとりに単独で築かれている。 同じ後期古墳で、ここから北方向2、8kmほどの大方台地先端部に築かれている大型円墳の、大方鹿島神社古墳との前後関係が注目されます。

2022年1月19日水曜日

梵天山古墳 表情

 これらの土器片は、主に梵天山古墳の後円部から表採してきたものです。

今まで、複数の方達からこの古墳についての事柄をお聞きしてきました。

古墳で紡錘車を拾ったことがある。 須恵器を拾ったことがある。 戦後は藪がひどくて立ち入れない時期もあった。 このあたり一帯は松が植えられていた。 大日本帝国陸地測量部が明治38年に測図した地図に、古墳の後円部に鳥居マークがあるのはそれなりの規模の神社があった可能性がある。など、時代が異なる土器片が混在していることを含めて、これらがこの古墳の表情と歴史ですが、これから少しづつ内実が見えてくると思います。

 

2022年1月15日土曜日

常陸太田市 中野町 4




常陸太田市中野町にある独立丘陵の私的調査。

西側斜面を除いてだいたい終了しました。 まあ、一人での調査だったので、隈なくとはいかないまでも、この丘陵の地形の細部を見ることが出来たのは良かったと思っています。

成果としては不発でした。

3月はぼちぼちと、別な地点を見てみようと思っています。


 

2022年1月10日月曜日

常陸太田市 中野町 3



今日も中野冨士山古墳にご挨拶してから、突撃。

円墳らしき5米のマウンドを今日も探しましたが、不明でした。 そして、史考15号では東側斜面では何も発見されなかった、となっていますが、谷状に切れ込んでいる地点があり、もしやと思って見てみましたが、なにも見当たりませんでした。

丘陵の東西で地質の違いがあるのかもしれません。 念のために、北側の丘陵先端部に這い上がってみました。 丸くマウンドにも見えますが、(2段目画像)このような地形はよくあるんですよね。 次回はまた別の地点へ突撃します。
 

2022年1月6日木曜日

常陸太田市 中野町 2




 史考15号では調査に至る経過として、 調査開始前に屋根(尾根?)中央部に円墳が、東西斜面に横穴墳があるものとの想定を下し調査を行った。屋根(尾根?)中央では丘陵の最高点と思われる所に円墳らしきもの二基を発見した(2段目画像青線)。これは二基共直径約五米封土は流れて相当低くなっており、高さ約一米でS一号墳の中央部に盗掘らしき凹みが見受けられた。 とあります。

上段画像は国土地理院の傾斜量図を拝借しています。 ちょっと不鮮明ですが、下のほうに見える前方後円墳が中野冨士山古墳です。赤丸で囲ったところに、整地されたようにみえる地点に円墳らしき影が見えています。ただ、2段目の史考15号にある略図とくらべると、地形が異なって見えます。多分南北が逆転して描いてしまったのかもしれません。

それはともかく、まず初めにこの円墳とされる地点を目指しましたが、傾斜量図にあった地点が分かりませんでした。 もう少し北側に行った地点に円形の高まりがありました。径約10mほど(下段画像)。これがたんなる土膨れなのか人工物なのかはわかりません。

中野冨士山古墳整備の時、80歳を超えた方達との会話で、戦争中に金砂郷町にある丘陵の高所地点に高射砲陣地が築かれたところもある、との情報を聞かされています。

さて、そんなことも参考にして、再度突入してきましょう。


2022年1月5日水曜日

常陸太田市 中野町 1



 喪中なので新年の挨拶は無しです。

上段画像は、常陸太田市中野町にある独立丘陵で、画像左側付近に中野冨士山古墳があります。

昭和33年6月3日、常陸太田第一高等学校史学会員13名が、以前は郡戸村だったこ地の丘陵を群戸丘陵と呼称して調査を行っています。

それをまとめたのが、下段画像「史考 第15号 郡戸古墳調査報告」です。

私もこの丘陵は2012年から数回調査をしていますが、部分的調査で終わっているので、史考15号を参考にして、なるべく全域を調査したいと思っています。

まあ、物好きな事ですが、これも私の趣味ですから。 そう、趣味=物好きでしょう。