2020年6月28日日曜日

十王台式と黒ボク土


60年ほど前のこと。当時小学校3年生だった私は、中学校の新設工事で縄文土器が出たと聞きつけて拾いに行ったことがあった。それは、赤土の中から出てきて、みかん箱いっぱいに拾ってきたことを覚えている。

そして、常陸太田市の古墳との付き合いが始まってから、古墳の表土は黒ボク土で覆われていることを知った。 さらに、梵天山古墳に代表される常陸太田市の古墳の表土から、十王台式土器が拾える事実も知った。

この黒ボク土、農業経験者から笑われそうだが、私は最近まで栄養満点で農業に最適な土だと思い込んでいた。 付け焼刃的に黒ボク土について調べてみると、リン酸供給が乏しく古来農業には不向きな土とされていて、土壌改良にはリン酸と石灰の供給が必要なんだそうだ。

赤土時代を生きた縄文人はともかく、黒ボク土時代、十王台式土器を使用した人々とそのあとの古墳時代を生きた人たちの農業のあり方はどうだったのだろう。 水田稲作ができない地域のほうが多かったのではと想像するが、画像は、旧瓜連町にある新宿古墳群付近の麦畑。 黒ボク土も場所によってその色調が微妙に変化する。 この地は高台のため水利の関係で水田稲作はできない。 もうすぐ刈り取りが始まる麦秋の風景。

弥生時代の後期から古墳時代の黒ボク土での畑作の状況は、焼き畑農業だっただけでくくっていいものなのか。 十王台式土器の各河川の重要地点を占拠している状況と、 6世紀築造と思われる古墳が多数存在するありさまは、流通に注目するだけでなく食糧増産にも注目して、画期がそのどこかに潜んいるのではと考えたい。



2020年6月22日月曜日

常陸太田市 小島町


今回は常陸太田市「小島町」(おじまちょう)。 小島町は竹越、本郷、高畑などの部落に分かれており、その中の本郷地区を取り上げてみます。 この小島町本郷は上段地図を見ていただくと分かるように、梵天山古墳がある島町と中野冨士山古墳がある中野町とに挟まれている立地で、久慈古墳群と久慈川、その支流の山田川、浅川とに囲まれたそれらの中心部とも見える立地になっています。

本郷地区には約26世帯が居住されており、そのほとんどが水戸藩時代に郷士をつとめた本家と庄屋をつとめた分家の末裔である鴨志田姓で、鴨志田家が光圀より「潰諏訪社跡」(星神社古墳)を拝領したことは皆さんご承知のことでしょう。

この本郷地区は、茨城県遺跡地図には遺跡として星神社古墳のみが登録されていますが、2018年の冬に教育委員会の担当者とベテラン調査員のK氏、T氏と共に遺跡分布調査を行い、本郷地区東南部、所謂梵天山古墳が望めるあたりの畑、居住地付近に土師器を主にした土器の散布が見られました。

しかし、星神社古墳の近くにある鹿島神社から東に向かってのあたりは、繁茂した草々と銀杏の巨木などがあって調査手つかずの状態です。

そして本題です。 画像下段は北側から見た、右側に星神社古墳、左端に梵天山古墳がある島町。真ん中に調査手つかずの木々が茂った所と(鹿島神社がある)、わずかに住宅が見える本郷地区。 この前期古墳に取り囲まれているようにも見える、居住地を中心とするある意味空白地帯をどう理解するか。 土器片から推察するに、住居跡があるだろうなと考える地点なのか、それともそれ以上に重要な地点なのではと考えるのか。 島町にある阿弥陀塚古墳以降大型古墳の墓域は浅川を遡上して、大方地区へ移動。 あるいは山田川を利用する大里、薬谷地区へと墓域が変遷していくわけですが、さて、私は久慈川左岸の久慈古墳群と共に、同時代の重要地点の可能性をこの「本郷地区」に見ているのですが、この妄想が有りか否かと分かるときが来ればいいなと思っているしだいです。

2020年6月13日土曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 最上流の古墳

常陸大宮市の久慈川最上流域には、「鷹巣古墳群・青丸」、「小祝糖塚古墳・赤丸」、「岩崎古墳群・緑丸」等があります。

このスタンフォード大学が公開している地図は、明治38年測図、大正6年修正測図となっています。 各色の丸は私が実見した古墳を示していますが、現在の地図と見比べてみると、幹線道路はともかく脇道などは異なる部分も見受けられます。

では、萩野谷氏の「常陸大宮市域の古墳群」を参考にして各古墳を見ていきます。 「鷹巣古墳群」は円墳4基からなる古墳群で、2基が湮滅しているとなっています。詳細は不明。 私が道路沿で見たモノがその1基で間違いないと思いますが?。多分。  「小祝糖塚古墳」は鷹巣古墳群から北西へ500mほどの段丘上にあります。もとは11基の古墳群で現在は3基の円墳と、円墳か前方後円墳かと意見が分かれている「小祝糖塚古墳」があります。萩野谷氏も指摘しているように、段丘上にある古墳群と低位置にある「鷹巣古墳群」、「岩崎古墳群」と興味深い現象がみられる地点でもあります。

そして興味深い「岩崎古墳群」。大宮町史にも測量図が載っていますが、前方後円墳2基と円墳2基との古墳群で、盗掘を受けたり一部削平されたりで遺存状況は良くないが、後期に属する古墳群とみられるとなっています。 問題はその地形で、久慈川が大きく屈曲し古墳を取り囲むように流れ、何かに特化した岩崎村だったのではと思いたくなります。 今どきの感覚でいくと、観光簗を造って鮎主体の川魚レストランの村にしたいと思いますが、妄想をもっと膨らませて、川があたかも村を取り囲む防護壁にも見えて、西側の一部と閉じれば馬牧になるのではと思ってみました。

まあ、県北部の馬牧は水戸藩が奨励するまで痕跡が無いようです。 地名にもそれが見て取れますが。 
 



2020年6月7日日曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 もうひとつの道

前回は、県道61号線が古墳時代の久慈川と那珂川とをつなぐ陸路の可能性を指摘しました。那珂川の下江戸付近の対岸に船渡の地名がありますが、そこから少し上流の小場にも舟渡の地名があり、さらに小場城跡もあるという歴史的にも意味がありそうな渡河地点だろうということで、今回、もうひとつ可能性がある陸路を提示してみたいと思います。まず久慈川流域の発着点として、舟を最大活用するとの前提で、その支流の玉川に架かる道本橋付近を船着き場と仮定して那珂川流域の小場に向けて出発していきます。 上の地図上の赤点は各撮影ポイントで、黒丸は「五所皇神社裏古墳」を示しています。


2段目画像が「五所皇神社裏古墳」です。国道118号線をくぐって瓜連方面を目指します。
国道118号線をすぎて、画像真ん中あたりを右折していきます。
坂を上がってから右折して、水郡線の陸橋を渡ります。踏切があった道路は閉鎖されたようです。
そのまま道なりに進み「弘願寺」前の十字路を直進。

道が二股に分かれる地点に3基の道標が佇んでいました。真ん中の道標を見ると「右小ば」、「左下江戸」とあり、左は静神社付近を通り県道61号線に合流する道のようです。その下の文字は「舟」と読めます。裏にはかすかに年号が「寛政」(1789~1800)とあり、ひょっとしたら古代まで遡れる道なのではとワクワクしてきました。ちなみに、右側の初代と思われる道標は風化していて文字は読めませんでした。
二股を右に行くと、旧瓜連町にある「新宿古墳群」の中を通っていきます。右に見えるのが前方後円墳の「権現塚古墳」です。この道象徴的ですよね。
道なりに進み細い十字路を直進。少し下って玉川まで伸びていく谷津を渡って少し上ります。
上って行ってT字路を右折。
そして分かれ道を左へ、小さなIT関連会社の前を道なりに進みます。
200mほど進むと未舗装道路になります。この未舗装道路部分は、国土地理院地図とスタンフォード大学提供地図には載っていますが、グーグルマップは認識していないようです。
道幅は乗用車が通れるほどです。
未舗装道路を650mほど進んでくると、上村田方面からくる道路とのT字路を左折。
そして、県道318号線との交差点を左折。
県道102号線とのT字路に見えますが、細い道を直進。
那珂川の堤防手前の道を左折して高台に上がると小場城跡があり、あおれんじゃあ氏が常陸大宮市教育委員会より依頼されて作成した解説版が立っています。彼のホームぺージ「北緯36度付近の中世城郭」も参考にすると、この城は鎌倉時代に築造されたとあり、ここまで通ってきた道も鎌倉時代までは遡れる可能性があるのではないでしょうか。

そして小場の那珂川堤防に到着。玉川からの行程は約5.5kmで、県道61号線よりは起伏が少ないように感じました。この小場にある「舟渡」の地名と下江戸ある「船渡」の違いは、字づらからすると下江戸がメインで小場がサブ的な渡河地点だったのか、どうなんでしょうかね。この付近の那珂川流域の古墳は久慈川流域とくらべて希薄に見えて、6世紀の以降の古墳が散見される状況です。著名なのは茨城大学が調査した「徳化原古墳」があります。那珂川までの直線距離は約2.8km。なお周辺には複数の城跡があり、小場付近が重要地点だったことに間違いないでしょう。 そして妄想を膨らませると、常陸大宮市には「五所皇神社裏古墳」の北西700m程の地点にある縄文時代中期の遺跡から、新潟地域特有の土器と共にヒスイの大珠8個が出土しており、すでに広範囲な交流の下地が出来上がっていたのではないでしょうか。