2022年7月30日土曜日

浅川のほとりから 13






 戸の内橋から上流へ約420mほどの、県道167号線の浅川に架かる清水橋。
橋を渡って西へ行くと常陸大宮方面、(3段目画像)北へ行くと、西金砂神社、山方方面となります。(4段目画像)
橋から南西方向380mほどの所に吉田神社があります。5段目画像右側、三角屋根の住宅の奥にある樹林の中にあります。 市のホームページを参考にすると、仁安元年(1166年)、佐竹隆義による創建だそうです。
元はこの付近は道路が狭く小さな郵便局もありましたが、道路が拡張されは橋も新しくなり、郵便局は元の金砂郷町役場跡地に移設されています。

2022年7月27日水曜日

浅川のほとりから 12




 常陸太田市下利員町と竹合町との境、町田橋から上流へ980mほどの所にある戸の内橋。

橋の北東方向(上段画像)橋の延長線上の少し右側の高台に、小さく金砂郷護国神社が見えます。
浅川上流方向(2段目画像)真ん中に見えるアイボリー色の民家の左側の、民家の裏庭的位置に、原塚古墳があります。(3段目画像)この画像は東側から見たもので、石室が見えません。
下流方向100mほどの地点に、北野神社が見えています。(4段目画像) 手前には、川から田んぼへ水を引いているポンプが見えています。

2022年7月26日火曜日

CORVINUS


             CORVINUS EGYETEM BUDAPESTI

ドナウ川の両岸にまたがるブダペシュトのペシュト側のドナウ川沿いにあるコルヴィヌス大学。 親からすれば想定外の状況で上の娘がこの大学を卒業しました。 今、この国のオルバン首相の強い?指導力で、EUとあるいはロシアなどと、独特の手法で対峙していますが、まあ、なんといいいますか、私も間接的にハンガリー国とのかかわりがあるので、ヨーロッパ情勢には注目しています。 民主主義の未来がどうだとか、ウクライナの歴史からロシアとの歴史を解説してくれる人もいますが、今回の戦争のカギを握っているのは、プーとバイデ〇と納豆の妥協なんでしょうに。 貧乏くじ引くのは、歴史的に見てもいつも一般庶民!!

ちなみに、どうでもいいですが、この大学の名前は1458年から1490年まで在位した、マティアス・コルヴィヌス王の名前をとっていますが、歴史の変遷で1953年にはカール・マルクス経済大学との名前に改称させられています。 さて、どこの「アホ・アカ?」の圧力なのかはおわかりでしょう。

2022年7月25日月曜日

浅川のほとりから 11





 妄想を膨らませた付近の西側にある竹合橋から上流へ500mほどの所にある、町田橋。

2段目画像はその上流方向を見たものです。川の延長線上に見える民家の左側にあるのが、竹合の丘陵で、中段に小さな石室があります。 川を挟んだ大方地区は運動公園になっていて、(3段目画像)今、その拡張工事なのでしょうか。 4段目画像真ん中、重機の奥、高台に見える住宅付近に大方熊野神社古墳があります。

2022年7月23日土曜日

Comfort Food





 今日は、常陸大宮市史セミナー・シリーズ講座2「モノから見えてくる先史時代の暮らし」を拝聴してきました。 講師のS氏のプレゼンは、いつものように柔らかい語り口とユーモアも交え、私のような頭へも内容が入ってきました。 勉強になりました。

そして帰り道、常陸太田にあるうどんの「本店 いづみや」で「もりうどん」を食しました。 このうどんは私のとってのComfort Foodで、45年ほど前に初めて食べて、太くて長くて素朴でうまいと感動したうどんなんです。

今日のプレゼンは、私にとってはIconic Foodとも言っていい素敵な内容でした。

ありがとうございました。

2022年7月21日木曜日

浅川のほとりから 10ーb






 上段画像は、大方鹿島神社古墳から北方150mほどの所から、台地西側下に降りてくる道路です。 道路の脇を旧河道の痕跡ではと思われる細い流れがあり、それは南のほうに(2段目画像)流れて行きます。

この道路の北西側は広場になっていて、年配の方達がゲートボールなどを行っています。 そして、この細流は広場の輪郭をなぞるように、台地に沿って上流に向かっているのがうかがえます。(3段目画像)  この細流や付近の立地状況を見ても、周辺は随分と改変されているようで、正直、これをもって船着き場、あるいは船溜まりだったとは断言できないでしょうね。

まあ、これはあくまで私の妄想です。 余談ですが、上段画像右側にある小屋の奥に、下段画像のような横穴墓にも見える地点がありました。

浅川のほとりから 10ーa




 上段画像から、国土地理院の「治水地形分類図」で、次はスタンフォード大学が公開している「明治38年測図地図」と、それから常陸大宮市歴史民俗資料館で購入した「辰之口分江全図」(嘉永六年1853年)のそれぞれ一部を拡大して借用しています。

今回注目したのは、大方台地の西側を流れる浅川が、以上の3点の資料を参考にすると、過去には部分的に現在とは違う流路をとっていることが分かり、(赤矢印と指先)これを現在の地形を眺めながら妄想を膨らませてみようという試みです。

まず、明治38年地図をみてみると、現在大方町となっている南北にのびる台地の山田川をまたぐ先端部あたりが大方で、その西側が臺(だい)で、またその西側が竹合となっていて、今、竹合町となっている地点は上竹合となっていることが分かります.

さて、今回注目する浅川の流路ですが、治水地形分類図を見てみると現在の流路と旧河道との違いが分かると思います。(水色と白色縞模様が旧河道)大方台地南端部にある大方鹿島神社古墳と、そこから北方へ480mほどの所にある大方熊野神社古墳の丁度中間地点あたり、台地の西側側面に食い込むように旧河道は屈曲して流れています。これだけ屈曲しているということは、流れが緩やかで、結論から言えば、この付近は船着き場、あるいは船溜まりだったのではないのかなと妄想したわけです。

この旧河道が古代まで遡るのかは当然不明ですが、次に現在の画像からその痕跡がうかがえるのか見てみたいと思います。

2022年7月17日日曜日

グレーとのコントラスト



 戻り梅雨のような天気です。 適度な日光と水分は命の源泉だとおもいます。

生き生きしている緑とグレーのコントラストも、時には癒しです。そして、

順調に育っている様子も癒しの、星神社古墳。

2022年7月14日木曜日

浅川のほとりから 9






 国道293号線に架かる浅川橋から約700m上流にある竹合橋。 この橋から西側が竹合町で東側が大方町です。 上流方向(3段目画像)樹林の右側、住宅の奥付近に熊野神社古墳があります。 橋から東方向(画像4段目)の高台には大方鹿島神社古墳を始め多数の古墳群が存在していました。 川の流れのよどみにはカモでしょうか、水鳥の姿も見えています。

2022年7月12日火曜日

浅川のほとりから 8




国道293号線に架かる浅川の橋、そのままの浅川橋。 ここから大里の来迎院までの距離はおおよそ1,7kmほど。(3段目画像) 北側に見える樹林の中には、大型円墳の大方鹿島神社古墳とその隣に30m級の円墳もあります。(4段目画像、電柱の左側に見える樹林の中)
 

2022年7月11日月曜日

浅川のほとりから 7





 前回の沈下橋から約300mほど上流にある瀬良田橋。 橋の名前の付け方はいろいろあるらしいですが、この付近の橋は字名がつけられているようです。 この橋の西側の丘陵と北西に伸びる丘陵は、皆さんと調査しましたが、目立つものは発見できませんでした。

前回の青木(オオキ)地区とこの瀬良田地区の集落は、2011年の大震災で大分被害を受けた地区でもあります。

2022年7月9日土曜日

二本松藩士の墓と、そして







 常陸太田市木崎一町の鯨ヶ丘トンネルの西側出入り口の北側にある、二本松藩士のお墓をお参りしてきました。 幕末のみんながヒステリー状態のなか、常陸太田の警護のため二本松藩から派遣され、この地で天狗党と戦って亡くなった方達のお墓です。 激動の時代、残された遺族の方達のその後の人生はどんなだったんでしょう。

そして、昨日の安倍元首相の射殺事件。 プーチンの蛮行より驚きました、悲しくなりました、怒りがこみ上げてきました。 21世紀の日本でこんな事件が起こるなんて、愚かな人間に歴史を変えられてたまるもんかと、思っています。

2022年7月7日木曜日

浅川のほとりから 6



善光寺橋から上流へ500mほどの所に沈下橋があります。 ここにも沈下橋があるとは、知りませんでした。私にとっては新発見です。
 松栄町と花房町との境付近にあるN氏宅から北側へと続く丘陵は、横穴墓群の集中地帯となります。(画像2段目、3段目) 途中の切れ込んだ谷津の奥にも横穴墓群があります。