2023年4月29日土曜日

水戸市 大井神社







 水戸市飯富町にある式内社「大井神社」。 祭神は建借馬命。 配祀は木花開耶姫命。

安戸星古墳群跡地から北方へ約800mあたりにあります。 笠間市にある大井神社の祭神は神武の子の神八井耳命になっていますが、この神社の由緒を拝見すると、神八耳命と九州との謂れのことについても解説されています。

この地域の歴史的散策をするなら、大井神社の由緒を参考にして、以下のコースがよろしいんじゃないでしょうか。

ここから南方面へ、安戸星古墳群跡地を見て、堀吉田神社と西原古墳群を散策してから、台渡里官衛遺跡群をみて、そして茨城大学を仰ぎ見てから愛宕山古墳の後円部にある愛宕神社にお参りをする。  これに、船瀬足尼と彌佐比命を付け加えると、常陸国北部の古墳時代の始まりから、その後の時代までのあらましが見えてくるかもしれません?


2023年4月23日日曜日

水戸市 安戸星古墳群跡地から





 西原古墳群の報告書に記述されていますように、那珂川の支流の田野川を挟んだ位置にある、水戸市飯富町の「安戸星古墳群」があった地点を訪れてみました。 画像2段目の右側、特別支援学校がある高台が安戸星古墳群があった地点でしょうか。 画像3段目は、近くの見通しがきく地点からみた西原古墳群がある台地方面です。

過去にもこの地点には来たことがありますが、その時は西原古墳群の存在を知りませんでしたし、安戸星古墳群と那珂川との関係性しか見ていませんでした。

画像4段目の、国土地理院の地形分類図を参考にすると、画像中央部にある特別支援学校地点が安戸星古墳群があったあたりで、下の方の鳥居マークの少し東側あたりに西原古墳群が展開しています。 そして、お互いが川をはさんで正対しているようにも見えて、その距離はおよそ800mです。

水戸市教育委員会の調査によると、西原古墳群は前方後方墳を嚆矢として、その後円墳を主体(方墳もある?)とする総数23基の古墳群となり、対岸にある安戸星古墳群は全長28.3mの前方後方墳を築造後、方墳1基と円墳を含む13基の古墳群となっています。 

さて、もう一度地形分類図を見ていただくと、右端に蛇行して流れる那珂川が見えます。 古墳時代はもっと元気な流れだったと推察しますが、那珂川は久慈川と共に水害の頻発地帯でもあります。 この飯富町も2019年に大きな水害に見舞われました。

いつも思うのですが、十王台式時代からの人びとは、河川との折り合いをどのようにつけて、地域の開発や水運や水田を運用していったのか、この両古墳群はいろいろと考えさせてくれる存在だと思います。



2023年4月17日月曜日

水戸市 西原9号墳



 水戸市堀町にある西原古墳群中にある「西原9号墳」。

1号墳を撮影した後、南側にある2号墳を撮影したのですが、なぜかピンボケでした。 

その後、藪から出るのに神社地点まで200mほど戻るのは面倒に思って、そのまま南方向へ進んで、金網柵で囲われている地点へ出てみると、目の前の住宅の庭の奥に、半分削られて断面が見えているマウンドがあり、居合わせた奥さんに聞いてみると「「古墳じゃないようですよ」との答え。 そのため撮影しないで帰ってきましたが、どうやら11号墳だったみたい。 

2023年4月16日日曜日

水戸市 西原1号墳





 水戸市堀町にある西原古墳群中にある、全長40,6mの前方後方墳の西原1号墳です。

画像上段から順に、後方部から前方部への画像で、下段画像が後方部頂部です。

藪の影響でとても分かりにくいのが残念です。

この日は気温が上がり、歩きまわると汗をかきましたが、幸いなことに虫はいなかったし、蜘蛛の巣もほとんど無くて助かりました。 前期古墳オタクのわたし的には一応満足ですが、もう少しクリアな状態で観察したかったな!


2023年4月15日土曜日

水戸市 西原3号墳


 水戸市堀町にある西原古墳群中の3号墳。 前方後方墳の1号墳の前方部近くにあります。

今回、明治大学文学部考古学研究室刊行の「考古学集刊 第7号」の「茨城県水戸市西原古墳群測量調査」を参考にしています。

吉田神社の参道を、ブロアー機でもって枯葉を吹き飛ばしていたオジサンに、古墳を見に来ましたと断って、どこから行けばいいのかと聞いたら指さすだけでそっけない素振り、しかたないので、神社から東方向の藪へ突入してきました。

2023年4月14日金曜日

水戸市堀町 堀吉田神社





 水戸市堀町にある「堀吉田神社」。 祭神は日本武尊。 那珂川を見下ろす位置にあります。  実は、この神社に参拝するために来たわけではなく、遅ればせながら、西原古墳群を観察するためにやってきました。

4月14日の星神社古墳




 常陸太田市小島町にある、4月14日 14時14分の「星神社古墳」。

ぞろ目の数字には何の意味もありません。 水戸からこちらに来たので、たまたまそうなっただけです。 後円部の神社地点がきれいに掃き清められていて、鴨志田家の意識の高さが見えてきます。 私の心の古墳でもあるので、うれしいです。

2023年4月6日木曜日

茨城県行方市大日塚古墳の研究


 先日、見慣れないメールが入ってると思ったら、明治大学考古学研究室から、以前「佐自塚古墳の研究」を購入した人達全員に発信されたメールのようでした。

今回は「茨城県行方市大日塚古墳の研究」の購入案内のメールで、送料込みで¥2700です。   もちろん購入しました。

古墳に興味のある茨城県人は、ぜひ購入してほしいな‼

2023年4月4日火曜日

古い地図と凸凹図から見てみる



 上段画像は国土地理院の傾斜量図を、下段画像はスタフォード大学が公開している、明治38年測図地図を借用しています。

共に、赤矢印は「桜山古墳」地点を、青矢印は「舟戸山古墳」地点をそれぞれ示しています。

明治38年測図地図(以下地図)には、90度近く蛇行した久慈川河口部が表示されています。 これは、約50年前に直線的な流れになるよう、河口部の付替え工事が行われて現在に至っています。 上段画像の傾斜量図(以下量図)には、久慈川ではなく支流の茂宮川が表示されています。 

さて本題ですが、地図上の桜山古墳は小さな丸で表示されています。当時も認識されていたんでしょうね。 舟戸山古墳は37.4mの三角点で表示されています。 この2基の古墳の間に展開している低地が現在の久慈町3丁目で、海抜が2mほどのため、この付近の住宅地は過去に何度も冠水被害にあっています。  そして、桜山古墳は、東からのびてくる丘陵の西端に築かれていて、舟戸山古墳は、丘陵北東端に築かれています。 この古墳それぞれが、久慈町3丁目を見下ろすように築かれているように見えます。 以上の状況を考え合わせると、この久慈町3丁目付近は湾のような地形で、古墳時代の港としての機能を持っていたのではないのかなと推測したいです。

なんか、ここまで書いてきて「そんなの知っとるわい!」と言われそうですね。メンゴ。