岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1 岩波書店
「縄文時代から弥生時代へ」 設楽 博己さんより一部抜粋
弥生文化形成論の意義
これまでの弥生文化の研究でおもに取り上げられてきたのは選別型経済類型のそれであった。古墳時代から律令国家への歩み、すなわち国家形成という政治史的な動向をにらめば、選別型農耕を基礎とする大陸的文化要素を主とする西日本に典型的な弥生文化類型が重視されることは論をまたない。選別型経済類型の社会から古墳築造の動きが始まるという事実に即して、古墳時代への移行や国家の形成という重要な歴史過程を叙述するための当然の帰結であった。
しかし、別の視点からすれば、それは進化論的進歩主義思想にもとづく歴史の描き方であった。弥生文化を農耕文化複合ととらえ、そのなかに様々な類型があることを重視すれば、大陸的選別型農耕文化のみをもって日本列島の初期農耕文化とするのは一面を見ているにすぎないことになる。金属器の導入、支配構造の明確な墳墓の形成、集団戦の激化、集落の大型化など政治的社会の形成が顕著になるのは弥生前期末~中期初頭以降であり、それまでは緩やかな社会的諸関係のなかで農耕文化が形成されていったのである。近年の炭素14年代測定とそれにもとずく較正の結果に依拠すれば、弥生時代の半分は政治的な社会化が未成熟であった。そのような段階も弥生文化と認めるならば、弥生文化の定義は農耕文化複合の形成に求め、やがて政治的な編成が進行して古墳時代に移行する、ととらえるべきであろう。
日本列島の農耕文化複合の形成、弥生文化の形成は、大陸から導入された農耕文化複合を、それぞれの地域や土地における歴史的条件に応じて選択的に受容した結果である。これは日本列島の農耕文化の多様性、それを担った人々の多様性を重視する立場を支持することになる。かつて柳田國男は山人論を唱え、日本列島の民族の多様性を考えるきっかけをつくった。考古学における民族の問題や弥生文化形成の問題と無縁ではないこの考えは、方法論的な未熟さも手伝って柳田自身が挫折し、また柳田を含めて戦後諸学会全体が日本単一民族論へと傾斜する傾向を帯びていったのであるが、ここで示した多文化論的な視点はそうした単一文化民族論に対する批判的な視座を考古学からも提供することになるのではないだろうか。
新たな文化による伝統的な文化要素の性格の変化、あるいは逆に新たな文化のなかの伝統的な文化要素のあり様を考えていくことにより、農耕文化形成における在来の文化要素の換骨奪胎や新来の文化との相互作用交渉のもつ意味を推測することができる。大陸系要素一辺倒の平板な文化観を排し、多文化的な深みのなかで弥生文化像を再構築すべき時がきているのではないだろうか。
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