2023年11月28日火曜日

提砥について


 画像は、私が撮影したもので常陸太田市教育委員会のY氏の了解を得て載せています。 

これは、2021年12月に発掘調査した、常陸太田市島町にある「梵天山古墳」の東側、畑として使用している地点のトレンチから出土した石製遺物です。

これについては、当初から砥石だろうとの見解になっていましたが、私はこれについての知識がありませんでした。 そこに、参考になる掘 哲郎さんの論考に行き当たりましたので、その一部を掲載させていただきます。 

〇「馬の考古学」監修 右島 和夫  編集 青柳 泰介 諫早 泰介  菊池 大樹 

                     中野 咲  深澤 敦仁  丸山 真史

                           雄山閣  2020年2月

                                           

    「南東北の馬文化」 堀 哲郎  P235~P236

日本列島における砥石は金属器の使用と共に出現しており、古墳時代になると広く普及したモノの一つである。砥石には大きく分けて2種類あり、一つは工房などにおいて金属器の調整や仕上げに使用するもので、もう一つは刀子などを研ぐために携帯するものである。後者は上部に穿孔して金具や紐によって腰に吊るされたと考えられており、この携帯用砥石が提砥(さげと)である。堤砥はまた、実用的なものと装飾的なものに分類でき、後者については佩砥(はいと)とも呼ぶ。東アジアにおける佩砥(提砥)文化については新石器時代の中国まで遡るとされており、日本列島のおける佩砥文化は古墳時代中期に朝鮮半島との関わりの中で渡来系文物の一つとしてもたらされた可能性が高い。

ところで、日本列島における古墳時代の佩砥文化研究については、あまり顧みられてこなかったようで、入江文敏氏(*)の研究が嚆矢と言える。入江氏は朝鮮半島と日本列島の古墳から出土した提砥を比較・分類した。入江氏はまた、日本列島のおける古墳出土の提砥は、佩砥文化の招来から間もなく政治的に重要な位置にあった人物が身分表象のための装飾品として採用するものの、時期が降るにしたがって使用痕が目立つようになることから、その頃には招来当時の佩砥の意味は失われていたと指摘している。

* 入江文雄 1998「佩砥考」 網干善教先生古希記念 考古学論集 上巻

                   網干善教先生古希記念論文集刊行会

以上、笠間市教育委員会の堀 哲郎さんの論考の一部を借用させていただきました。 この提砥は群馬県の金井東裏遺跡でも出土しているようですが、インターネッで検索してもこの提砥についての情報は少なく、これからの研究の進展に期待したいです。        それから、常陸太田市ではもう一つ可能性があるモノが出土しています。


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