2020年6月22日月曜日

常陸太田市 小島町


今回は常陸太田市「小島町」(おじまちょう)。 小島町は竹越、本郷、高畑などの部落に分かれており、その中の本郷地区を取り上げてみます。 この小島町本郷は上段地図を見ていただくと分かるように、梵天山古墳がある島町と中野冨士山古墳がある中野町とに挟まれている立地で、久慈古墳群と久慈川、その支流の山田川、浅川とに囲まれたそれらの中心部とも見える立地になっています。

本郷地区には約26世帯が居住されており、そのほとんどが水戸藩時代に郷士をつとめた本家と庄屋をつとめた分家の末裔である鴨志田姓で、鴨志田家が光圀より「潰諏訪社跡」(星神社古墳)を拝領したことは皆さんご承知のことでしょう。

この本郷地区は、茨城県遺跡地図には遺跡として星神社古墳のみが登録されていますが、2018年の冬に教育委員会の担当者とベテラン調査員のK氏、T氏と共に遺跡分布調査を行い、本郷地区東南部、所謂梵天山古墳が望めるあたりの畑、居住地付近に土師器を主にした土器の散布が見られました。

しかし、星神社古墳の近くにある鹿島神社から東に向かってのあたりは、繁茂した草々と銀杏の巨木などがあって調査手つかずの状態です。

そして本題です。 画像下段は北側から見た、右側に星神社古墳、左端に梵天山古墳がある島町。真ん中に調査手つかずの木々が茂った所と(鹿島神社がある)、わずかに住宅が見える本郷地区。 この前期古墳に取り囲まれているようにも見える、居住地を中心とするある意味空白地帯をどう理解するか。 土器片から推察するに、住居跡があるだろうなと考える地点なのか、それともそれ以上に重要な地点なのではと考えるのか。 島町にある阿弥陀塚古墳以降大型古墳の墓域は浅川を遡上して、大方地区へ移動。 あるいは山田川を利用する大里、薬谷地区へと墓域が変遷していくわけですが、さて、私は久慈川左岸の久慈古墳群と共に、同時代の重要地点の可能性をこの「本郷地区」に見ているのですが、この妄想が有りか否かと分かるときが来ればいいなと思っているしだいです。

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