忠敬の墓の隣には、彼の師であった「高橋至時」の墓があります。 20歳ほど年の差がある師弟同士。 忠敬が望んで隣に葬られたそうで、若くして亡くなった年下の高橋至時先生とは、学問以上のつながりがあったんでしょう。 合掌。
そして、シーボルト事件で獄死した至時の息子さんの「高橋景保」の墓も並んでおり、その隣には、徳富蘇峰たちによる頌徳碑もあります。
しかし、当時の日本にとってのシーボルトとはなんだったのでしょうか。 沢山の日本の資料や情報を集め、結果的にはそれによって富と名声を得て,それに協力した日本の若者たちの意味は。 医者としてのシーボルトは、手術が下手だったとの証言もあるようですが。
非業の人生になってしまった景保さんに合掌。
蛇足ですが、この墓地には谷文晁と幡隋院長兵衛の墓もありました。
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