2020年5月29日金曜日

久慈川右岸の古墳群雑記 森戸遺跡のことなど



東北・関東前方後円墳研究会が発行している、シンポジウム発表要旨資料「古墳と豪族居館」を参考にさせていただきます。

過去の当ブログに、豪族居館とされる久慈川右岸にある森戸遺跡と左岸にある星神社古墳との関係性に否定的な記事を載せたことがありました。それは単に、一級河川である久慈川が両者を隔てていると解釈しただけの単純な根拠でしたが、「古墳と豪族居館」を拝読すると、喜多方市にある古屋敷遺跡と灰塚山古墳など河川を間に挟む事例があり、とても勉強になりました。 この森戸遺跡と星神社古墳との関係に最初に着目したのは新潟大学の橋本 博文教授だったのでしょうか。

この森戸遺跡は谷仲 俊雄氏がまとめた「茨城県の豪族居館」の編年によると、星神社古墳から中野冨士山古墳、高山塚古墳の時期まで営まれた居館となっていて、久慈古墳群との相性は抜群です。さらに、現在工事中の幸久橋付近には舟渡という地名が残っており、明治になって橋が架かるまで渡しが行われていたという地点でもあります。

視点を変えて、現在の私的目線でみた森戸遺跡周辺の事柄です。

常陸太田市藤田町は、隣接する天神林町、大里町、中野町などの丘陵に挟まれた田園地帯で、ここから真冬に北方向を見てみると、白い雪をかぶった那須方面の山々が見え、そこから冷たい風が吹いてきます。 それは、毎日と言っていいほど恒常的に、そして各丘陵があるおかげでビル風のように風速を増し、久慈川を超えて那珂台地に吹きあがっていくわけです。

画像は梵天山古墳がある島町から東南方向、森戸遺跡付近の那珂台地を見たものですが、川沿いに築かれた古墳も見えなければ住宅も見えません。それは、久慈川右岸の川沿いの大部分を防風林が視界を遮っているからで、そのおかげで那珂台地に居住されている方達は多少なりとも防風林の恩恵にあずかっていることになります。

古墳は他人に見せる機能も含まれているという解釈があります。 森戸遺跡からも久慈古墳群が見渡せなければなりません。 当時の人達は防風林のないさぞ寒い冬を過ごしたのでしょうか。

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