そして、周知の事実として、この付近は久慈川と那珂川との間がいちばん狭まるところですが、当時の物流の主役と思しき河川と舟を介在した流通プラス、陸路を介在した久慈川と那珂川とをつなぐネットワークがあったのではないのかと考えている方が私が知る限り3名いらっしゃいます。 まず、某大学の考古学教授、そして大洗町のT氏、それから在野の中世城郭研究者のI氏。 I氏は時代が違いますが考えていることは同じで、城郭と古墳とは相性が良いので参考になると思います。
まず、考古学教授は私との立ち話程度の会話でしたが、流通路はまだ良く分からない調査中とのこと。 T氏は明確に県道61号線だと断言。 I氏は中世の流通路として那珂川の下江戸だろうねと言うことで、たぶんT氏と同じ61号線を流通路として考えているようです。下江戸付近には船渡の地名があります。
相互の距離は約7.2kmほど。 この道筋は、久慈川からは瓜連の台地への上り坂があり、静神社の大鳥居をすぎてしばらく行くと那珂川まで続く下り坂で、この坂が逆の工程では結構な難所になりそうです。 問題はこの県道61号線が何時から流路として成立したかの調査検討が必要になりますが、どんなもんでしょうかね。
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