Elvégzett vizsgálatok,például MRI,CT és Csontszintigráfia.
Az eredmény kettő hét múlva lesz ismert.
2020年7月22日水曜日
2020年7月18日土曜日
「旧事諮問録 上 下 岩波文庫」 再読
この本は、30年数年前 手塚治虫さんの愛読書だと言うのを何かで読んで、それで興味をそそられて購入したのだと記憶している。
明治の世になって、旧幕府時代の要職に付いていた人々からの聞き取りをまとめた内容だが、細かいところは忘れてしまっていた。 改めて読み返すと発言者の多様な職種が興味深い。
将軍のそばに使えていた御小姓組取、財政の御勘定組頭,司法の評定所留役、大奥の中﨟、御次(奥女中),外国奉行、御庭番(所謂伊賀忍者)など、それぞれリアルな体験を語っていて面白い。
今回気が付いたのは、幕末の政治や外国との対外関係や当時の役人の人員配置状況などではなく、日本語についての興味深い発言に気が付いた。長くなるが書き出してみる。
旧事諮問録 下巻 旧幕外国奉行などを歴任した 竹本要斎の発言。
「御質問の前に当たりて一言申し上げて置きますが、幕府中の御話をしまするに、現今の言葉に改めて御話をいたすと、情の移らぬ事がある。それ故、やはり公方様 益御機嫌能恐悦奉存候という調子で、御の字が付かぬと情合が移らぬようであります。しかし中には、そのまま御話をすると甚だ現今の人の御存知のない事もあります。速記の方も、洋語を筆記なさるよりも難しいこともあろうと存じます。」 この聞き取りは、明治23年から24年にかけて行われていて、幕府解体からおよそ20年ほどの間に、所謂武家言葉が廃れている事実を物語っているわけで、今の言葉で言うと、官僚用語が消滅しかかっている状況とでも表現できるのかもしれない。
現在も、ヤバイヨ、チョウ、などと、年寄りの私も使っている日本語があるが、これからどんな日本語になっていくのだろう。
明治の世になって、旧幕府時代の要職に付いていた人々からの聞き取りをまとめた内容だが、細かいところは忘れてしまっていた。 改めて読み返すと発言者の多様な職種が興味深い。
将軍のそばに使えていた御小姓組取、財政の御勘定組頭,司法の評定所留役、大奥の中﨟、御次(奥女中),外国奉行、御庭番(所謂伊賀忍者)など、それぞれリアルな体験を語っていて面白い。
今回気が付いたのは、幕末の政治や外国との対外関係や当時の役人の人員配置状況などではなく、日本語についての興味深い発言に気が付いた。長くなるが書き出してみる。
旧事諮問録 下巻 旧幕外国奉行などを歴任した 竹本要斎の発言。
「御質問の前に当たりて一言申し上げて置きますが、幕府中の御話をしまするに、現今の言葉に改めて御話をいたすと、情の移らぬ事がある。それ故、やはり公方様 益御機嫌能恐悦奉存候という調子で、御の字が付かぬと情合が移らぬようであります。しかし中には、そのまま御話をすると甚だ現今の人の御存知のない事もあります。速記の方も、洋語を筆記なさるよりも難しいこともあろうと存じます。」 この聞き取りは、明治23年から24年にかけて行われていて、幕府解体からおよそ20年ほどの間に、所謂武家言葉が廃れている事実を物語っているわけで、今の言葉で言うと、官僚用語が消滅しかかっている状況とでも表現できるのかもしれない。
現在も、ヤバイヨ、チョウ、などと、年寄りの私も使っている日本語があるが、これからどんな日本語になっていくのだろう。
2020年7月15日水曜日
2020年7月10日金曜日
今日は降らないよね
梅雨らしい空模様です、などと言っていられない九州の災害。 こんなことが毎年何処かで繰り返されるのか、中国から拡散したコロナウィルスも含めて恐ろしい世の中になってきたなと思う。
昨年は常陸太田市でも広範囲に水害があり、大変な思いをされた方たちを身近に見る機会があったが、付け焼刃な慰めの言葉など出るわけがなく、無言で立ち尽くすしかなかった。
茨城県が発表しているハザードマップによると、この常陸太田市小島町、島町の古墳がある地点はマークされていない。低位置にある星神社古墳も問題なし。 先人は良く理解していたわけで、古墳がある付近に居住すれば安全なのかもしれない。
画像は、星神社古墳と小島町方面から見た島町の独立丘陵。 今はのどかな風景が広がっている梅雨の合間。
2020年6月28日日曜日
十王台式と黒ボク土
60年ほど前のこと。当時小学校3年生だった私は、中学校の新設工事で縄文土器が出たと聞きつけて拾いに行ったことがあった。それは、赤土の中から出てきて、みかん箱いっぱいに拾ってきたことを覚えている。
そして、常陸太田市の古墳との付き合いが始まってから、古墳の表土は黒ボク土で覆われていることを知った。 さらに、梵天山古墳に代表される常陸太田市の古墳の表土から、十王台式土器が拾える事実も知った。
この黒ボク土、農業経験者から笑われそうだが、私は最近まで栄養満点で農業に最適な土だと思い込んでいた。 付け焼刃的に黒ボク土について調べてみると、リン酸供給が乏しく古来農業には不向きな土とされていて、土壌改良にはリン酸と石灰の供給が必要なんだそうだ。
赤土時代を生きた縄文人はともかく、黒ボク土時代、十王台式土器を使用した人々とそのあとの古墳時代を生きた人たちの農業のあり方はどうだったのだろう。 水田稲作ができない地域のほうが多かったのではと想像するが、画像は、旧瓜連町にある新宿古墳群付近の麦畑。 黒ボク土も場所によってその色調が微妙に変化する。 この地は高台のため水利の関係で水田稲作はできない。 もうすぐ刈り取りが始まる麦秋の風景。
弥生時代の後期から古墳時代の黒ボク土での畑作の状況は、焼き畑農業だっただけでくくっていいものなのか。 十王台式土器の各河川の重要地点を占拠している状況と、 6世紀築造と思われる古墳が多数存在するありさまは、流通に注目するだけでなく食糧増産にも注目して、画期がそのどこかに潜んいるのではと考えたい。
2020年6月22日月曜日
常陸太田市 小島町
今回は常陸太田市「小島町」(おじまちょう)。 小島町は竹越、本郷、高畑などの部落に分かれており、その中の本郷地区を取り上げてみます。 この小島町本郷は上段地図を見ていただくと分かるように、梵天山古墳がある島町と中野冨士山古墳がある中野町とに挟まれている立地で、久慈古墳群と久慈川、その支流の山田川、浅川とに囲まれたそれらの中心部とも見える立地になっています。
本郷地区には約26世帯が居住されており、そのほとんどが水戸藩時代に郷士をつとめた本家と庄屋をつとめた分家の末裔である鴨志田姓で、鴨志田家が光圀より「潰諏訪社跡」(星神社古墳)を拝領したことは皆さんご承知のことでしょう。
この本郷地区は、茨城県遺跡地図には遺跡として星神社古墳のみが登録されていますが、2018年の冬に教育委員会の担当者とベテラン調査員のK氏、T氏と共に遺跡分布調査を行い、本郷地区東南部、所謂梵天山古墳が望めるあたりの畑、居住地付近に土師器を主にした土器の散布が見られました。
しかし、星神社古墳の近くにある鹿島神社から東に向かってのあたりは、繁茂した草々と銀杏の巨木などがあって調査手つかずの状態です。
そして本題です。 画像下段は北側から見た、右側に星神社古墳、左端に梵天山古墳がある島町。真ん中に調査手つかずの木々が茂った所と(鹿島神社がある)、わずかに住宅が見える本郷地区。 この前期古墳に取り囲まれているようにも見える、居住地を中心とするある意味空白地帯をどう理解するか。 土器片から推察するに、住居跡があるだろうなと考える地点なのか、それともそれ以上に重要な地点なのではと考えるのか。 島町にある阿弥陀塚古墳以降大型古墳の墓域は浅川を遡上して、大方地区へ移動。 あるいは山田川を利用する大里、薬谷地区へと墓域が変遷していくわけですが、さて、私は久慈川左岸の久慈古墳群と共に、同時代の重要地点の可能性をこの「本郷地区」に見ているのですが、この妄想が有りか否かと分かるときが来ればいいなと思っているしだいです。
2020年6月13日土曜日
久慈川右岸の古墳群雑記 最上流の古墳
常陸大宮市の久慈川最上流域には、「鷹巣古墳群・青丸」、「小祝糖塚古墳・赤丸」、「岩崎古墳群・緑丸」等があります。
このスタンフォード大学が公開している地図は、明治38年測図、大正6年修正測図となっています。 各色の丸は私が実見した古墳を示していますが、現在の地図と見比べてみると、幹線道路はともかく脇道などは異なる部分も見受けられます。
では、萩野谷氏の「常陸大宮市域の古墳群」を参考にして各古墳を見ていきます。 「鷹巣古墳群」は円墳4基からなる古墳群で、2基が湮滅しているとなっています。詳細は不明。 私が道路沿で見たモノがその1基で間違いないと思いますが?。多分。 「小祝糖塚古墳」は鷹巣古墳群から北西へ500mほどの段丘上にあります。もとは11基の古墳群で現在は3基の円墳と、円墳か前方後円墳かと意見が分かれている「小祝糖塚古墳」があります。萩野谷氏も指摘しているように、段丘上にある古墳群と低位置にある「鷹巣古墳群」、「岩崎古墳群」と興味深い現象がみられる地点でもあります。
そして興味深い「岩崎古墳群」。大宮町史にも測量図が載っていますが、前方後円墳2基と円墳2基との古墳群で、盗掘を受けたり一部削平されたりで遺存状況は良くないが、後期に属する古墳群とみられるとなっています。 問題はその地形で、久慈川が大きく屈曲し古墳を取り囲むように流れ、何かに特化した岩崎村だったのではと思いたくなります。 今どきの感覚でいくと、観光簗を造って鮎主体の川魚レストランの村にしたいと思いますが、妄想をもっと膨らませて、川があたかも村を取り囲む防護壁にも見えて、西側の一部と閉じれば馬牧になるのではと思ってみました。
まあ、県北部の馬牧は水戸藩が奨励するまで痕跡が無いようです。 地名にもそれが見て取れますが。
このスタンフォード大学が公開している地図は、明治38年測図、大正6年修正測図となっています。 各色の丸は私が実見した古墳を示していますが、現在の地図と見比べてみると、幹線道路はともかく脇道などは異なる部分も見受けられます。
では、萩野谷氏の「常陸大宮市域の古墳群」を参考にして各古墳を見ていきます。 「鷹巣古墳群」は円墳4基からなる古墳群で、2基が湮滅しているとなっています。詳細は不明。 私が道路沿で見たモノがその1基で間違いないと思いますが?。多分。 「小祝糖塚古墳」は鷹巣古墳群から北西へ500mほどの段丘上にあります。もとは11基の古墳群で現在は3基の円墳と、円墳か前方後円墳かと意見が分かれている「小祝糖塚古墳」があります。萩野谷氏も指摘しているように、段丘上にある古墳群と低位置にある「鷹巣古墳群」、「岩崎古墳群」と興味深い現象がみられる地点でもあります。
そして興味深い「岩崎古墳群」。大宮町史にも測量図が載っていますが、前方後円墳2基と円墳2基との古墳群で、盗掘を受けたり一部削平されたりで遺存状況は良くないが、後期に属する古墳群とみられるとなっています。 問題はその地形で、久慈川が大きく屈曲し古墳を取り囲むように流れ、何かに特化した岩崎村だったのではと思いたくなります。 今どきの感覚でいくと、観光簗を造って鮎主体の川魚レストランの村にしたいと思いますが、妄想をもっと膨らませて、川があたかも村を取り囲む防護壁にも見えて、西側の一部と閉じれば馬牧になるのではと思ってみました。
まあ、県北部の馬牧は水戸藩が奨励するまで痕跡が無いようです。 地名にもそれが見て取れますが。
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